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カテゴリ:秋のおでかけ
大山の紅葉の見頃は、来週以降(20日頃)になりそうです。
紅葉の見頃については、観光協会HPで事前確認しましょう。 大山寺の紅葉がまもなくですね! 紅葉を楽しむだけでなく、大山の名物(豆腐料理)や大山(伊勢原)の歴史を知っていただけると、また違った楽しみ方が出来るのではないでしょうか。 次回は、家庭でも簡単に出来る「旅籠屋風」豆腐の作り方を紹介します。 【大山豆腐の歴史・由来について】 二代将軍秀忠は天下の政庁にふさわしい城をめざして、継続的な江戸城の大拡張を始め、三代将軍家光の時に天守閣、大手門、本丸御殿などの江戸城の主な建物が完成しました。 出来上がった江戸の町には、旗本や諸大名、商人、職人など、多くの人が住むようになり、開幕当時の寒村が天明のころには135万人を越える人口を持つ大都市に変貌します。 大都会江戸(東京)の町から見える霊峰大山に人々は憧れ、江戸の人口増加と比例して、参拝者が増加していったのではないでしょうか。この頃になると、宿泊の形態も「木賃宿」から一泊二食付の「旅籠」へと移り変わり、御師(おんし)たちが食していた精進料理である豆腐料理が広まっていきました。 関東平野の西側に最初に立つ山が、霊峰の大山です。 太田道灌だけでなく、ここでも伊勢原と江戸の関係は深かったようですね! 今でこそ「大山と言えば、豆腐料理」と言われるほど有名な名物となりましたが、それにはいくつかの理由が考えられます。 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ 【例えば】 「参詣者に供給する大量の食料を保存しておく設備がないため、井戸水などの冷水につけて保存できる豆腐などは、最適の食料であったこと。」 「豆腐の製造と保存に適した霊峰大山の良質の水が使われたこと。」 「江戸の発展と共に大幅に参拝者が増えていったこと。」 「豆腐が修験者や僧職経験者が食べ慣れた精進料理だったこと。」 「大山の御師(おんし)たちが拝礼や祈祷、日侍行事などを行い、謝礼として受け取り集められた大豆などの豊富な原料が大山に集まったこと。」・・・など。 このように多くの要因が複合し、高品質の豆腐が大山に生み出され、さらに育っていったため「大山名物=豆腐」という図式が出来上がったのです。 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ 【「旅籠屋」(はたごや)と「木賃宿」(きちんやど)の違い について】 一般の旅行者が宿泊するところには「旅籠屋」と「木賃宿」がありました。「旅籠屋」と「木賃宿」との違いは、食事が付いているか付いていないかの違いです。 まるで現代のビジネスホテルのようですね! 「旅籠屋」では夕食と朝食を出し、店によっては昼食の弁当を出すところもありました。 一方、「木賃宿」は、旅人が米を持参し、薪代を払って自分で米を炊くかまたは炊いてもらいます。「木賃」とはこのときの薪の代金、つまり木銭(きせん)を意味しています。 江戸時代以前には「木賃宿」が宿泊の本来の姿でしたが、庶民の旅が盛んになるにしたがい、次第に「旅籠屋」が増え、宿代も天保年間(1830~1844年)には「旅籠屋」は「木賃宿」の5倍以上もするということで、「木賃宿」は安宿の代名詞となってしまいました。場所も宿場のはずれなどにありました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006.11.12 22:36:53
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