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JINさんの陽蜂農遠日記

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を中心とした備忘録を兼ねた14年間にわたる毎日のブログ(雑記帳)です。

書き込んでいただける方は、写真下の『コメントを書く』から気楽に、ご感想、ご意見

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2024.05.06
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カテゴリ:JINさんの農園
そして「愛宕山公園入口」に到着。明治24年(1891年)に開園した横須賀市内最古の公園
当時は「浦賀園」と呼ばれ、入口上部には「浦賀園」と書かれた額・プレートが残っていた。



額・プレート「浦賀園」をズームして。
明治24年当時のものなのであろうか?

浦賀ドックのきっかけとなった「中島三郎助招魂碑」と横須賀最古の公園「浦賀園」(愛宕山公園)

愛宕山公園入口」案内柱。
その先に石段が始まっていた。



石段の横には案内板が。



愛宕山公園
明治二十四年(一八九一年)に開園した市内で一番古い公園で、「浦賀園」と呼ばれました。
浦賀奉行所与力・中島三郎助の招魂碑が建立され、篆額の題字は榎本武揚によって書かれました。
開園に出席した人たちの提唱によって浦賀船渠(株)が創設された話は有名です。
咸臨丸出航の碑には乗組員全員の名が刻まれています。
与謝野鉄幹・晶子の歌碑は、浦賀を訪れた時に詠んだものです。
江戸時代には鐘撞堂があり、町中に時刻を知らせていました
浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ」



上り始めてすぐのカーブの場所にあったのが「寳船稲荷社」。



狛狐(右)。



狛狐(左)。



さらに石段を上って進み、「寳船稲荷社」を振り返る。



石段の踊場から見た浦賀港。



途中に左への分岐あり、これが「浦賀愛宕山導灯」へと続く道。

愛宕山公園

1分ほど坂道を上って行くと「浦賀愛宕山導灯(後灯)」に到着。
この導灯は2003(平成15)年3月12日付けの三管区水路通報第10号によれば平成15年4月1日に
「住友重機愛宕山導灯」から名称が変更されたもので、灯台表には「白塔形」と。



そして引き返して、さらに石段を上って行った。



再び「浦賀港」の入口部方向を見る。
湾を出たところが浦賀水道で、その沖に見えているのは房総半島



広場の入口の所にあった3基?の石碑。



中央の石碑の碑文は最初の「中島永胤君招魂乃碑」だけしか読めず。
明治24年(1891年)7月。」
「中島永胤」は「中島三郎助(なかじま さぶろうすけ)」のこと。
江戸時代末期(幕末)の幕臣。江戸幕府浦賀奉行所与力、のち蝦夷共和国箱館奉行並
この碑は、稲井石(宮城県石巻市産)を使用し、高さ176cm、幅76cm、碑文は西野前知、
筆を執ったのは賜硯堂の主・成瀬温によるものてす。



流麗なひらがなの文には、
『中島永胤君招魂の碑を建てようと思い立ったの明治二十三年九月、翌年七月に建てた。
事績を後世に伝えるために、浦賀港を見下ろする絶景の場所に建てようと、草を刈り、
枝を払い、土をならし、石を据え、花の木や常葉木を植え、町民は勿論、愛宕山に来る
人々に安房・上総の海山を望む四方の眺望が素晴らしい山頂への道を整備し、休憩所を造り、
ここに来る人たちが三郎助の慰霊や遊びに利用することを願ってやまない。』と招魂碑
建設の趣旨と経緯が記されているのだ とネットから。



発起者」の文字があり「​発起者の碑​」👈️リンク とも。
三郎助と深いかかわりのあった人(碑に刻まれた三十六人)が賛同するならば、と町の人々も賛同
しました。記録によると、浦賀町発起人二十八名(内十八名は碑に名が刻まれています)、同町
賛成員七十三人が名を連ね、さらに愛宕山公園整備寄付人名簿に九十六の人と法人の名・寄付の
内容が記されています。多くの町の人達が建設にかかわっていることがわかります。近隣の町の
人も含め町民こぞって協力して公園を造り、招魂碑を建てたのです。
現在も町の人々が公園の清掃なと維持管理を行っています とネットから。
 


この碑は解読不能。



その先にあったのが「咸臨丸出港の碑」。



市制施行七十周年記念
横須賀風物百選
咸臨丸出港の碑
嘉永六年(一八五三)六月三日、米国水師提督ペリーが、黒船四隻を率いて浦賀湾沖に
現れました。我が国との貿易を進めることが目的でした。当時、我が国は、長崎を外国への
門戸としておりました。それが、江戸の近くに現れたから大変です。
「泰平の眠りをさます上喜撰 たった四はいで夜も寝られず」当時流行した狂歌が、世情の
一端をよく物語っています。
七年後の安政七年(一八六〇)、幕府は、日米修好通商条約批准書交換のため、米軍艦
ポーハタン号で新見豊前守正興を代表とする使節団をワシントンヘ送ることにしました。
幕府は、万が一の事故に備えて、軍艦奉行木村摂津守喜毅を指揮者に、勝麟太郎以下
九十有余名の日本入乗組員で運航する咸臨丸を従わせることにしました。
一月十三日、日本人の力で、初めて太平洋横断の壮途につくため、咸臨丸は、品川沖で錨を
あげました。途中、横浜で、難破した米測量船クーパー号の船員十一名を乗せ、十六日の夕刻、
浦貿に人港しました。それから二日間、食料や燃料、その他の航海準備作業が行われました。
意気天をつく若者たちを乗せた咸臨丸は、一月十九日午後三時三十分、浦賀港を出帆しました。
不安に満ちた初めての経験と、荒天の中を、三十九日間かけて、咸臨丸は無事サンフランシスコに
人港しました。米国での大任を果たした咸臨丸が、故国の浦賀に帰港したのは、家々の空高く
鯉のぼりの舞う万延元年(ー八六〇)五月五日でした。
この碑は、日米修好通商百年記念行事の一環として、咸臨丸太平洋横断の壮挙を永く後世に
伝えるため、サンフランシスコに建てられた「咸臨丸人港の碑」と向かい合うように、ゆかりの
深いこの地に建てられたものです。
なおここ愛宕山公園は、明治二十六年開園の市内最古の公園です。また、後方に建つ招魂碑の主・
中島三郎助は、咸臨丸修理の任にあたったことがあります。」



裏面には「​咸臨丸乗組員氏名​」👈️リンク が刻まれていた。



広場の巨木は「イヌマキ」。



イヌマキ
マツやスギに比べると、広い葉ですが同じ針葉樹です。じゅくした実の下についた紫紅色の
花托は多肉質で甘味があり食べられます。潮風に強いので、海岸近くの人家やみかん畑などの
防風林として多く植えられます」



先ほど訪ねた「東福寺」が北方向に見えた。



さらに急な石段を上って行った。



ここにも「中島三郎助」案内板が。



中島三郎助
明治二年(一八六九)五月、、旧幕府軍と新政府軍の最後の戦いが函館郊外の五稜郭近くで
行われた。この戦いで浦賀奉行所与力・中島三郎助親子は戦死した。三郎助の二十三回忌に
あたり、彼の功績と名誉を浦賀の町に末永く残すことを目的に、彼とともに激動の明治維新期を
生きた友人、知人たちによって建てられたのが真向いにある中島三郎助招魂碑である。
碑の篆額(題辞)は三郎助と公私ともに親交があリ五稜郭で共に闘った榎本武揚が記し、激動の
時代を象徴するような彼の人生を表したのは当時の外務官僚の田辺太一である。また、この碑の
除幕の日、初代の中央気象台長であった荒井郁之助の発案で、三郎助の意志を継いだ近代造船所を
浦賀の地で開業することが決定した。

中島三郎助略年表
文政四年(1821)  浦賀奉行所与カ・中島清司の次男として誕生、母は浦賀奉行所与カ・
          樋田仲右衛門の娘
天保六年(1835)    浦賀奉行所与力見習勤として出仕
嘉永六年(1853)  ペリー来航 応接掛として乗船
嘉永七年(1854)  鳳凰丸竣工
慶応四年(1868)    開陽丸て江戸脱出
明治ニ年(1869)    千代ヶ岡砲台で息子恒太郎・英次郎とともに死去
                                      横須賀市」



開園当時の愛宕山と家並み」。



浦賀奉行所与力 中島三郎助生誕200年祭」案内板。



浦賀奉行所与力 中島三郎助生誕200年祭
令和3年(2021年)1月25日

中島三郎助と遊ぶ会
中島三郎助の生涯
中島三郎助は、幕臣であることを貫き通して49年の生涯を終えた。その中島が見習うべき人物と
したのは、鎌倉時代に源頼朝に生涯を捧げた三浦大介義明であった。
文政4年(1821年)1月25日に浦賀で生まれ、三郎助で8代目となる奉行所の与力の家系であった。
天保6年(1835年)閏7月、15才で奉行所の与カ見習いとして出仕した。見習いに出仕するまでに
槍術・剣術ともに当時砲術三派であった田付流・荻野流・集最流をすでに学んでおり、後に
西洋式の高島流まで含めてすべて免許皆伝となっている。
この砲術の腕前は、天保8年(1837年) 6月に浦賀沖へ来航したアメリカ商船・モリソン号に
観音崎台場から砲撃を加え、打払っている。この時の功で、浦賀奉行・太田資統から太刀を
拝領した。
また、この年岡田定十郎の娘・すず(15才)と結婚をしている。
嘉永2年(1849年) 6月、父の跡を継ぎ与力となった。翌年7月には館浦にあった「玉薬製造所」の
責任者を勤めていたが、足軽役の者の過失から製造所と隣接の船蔵が焼失し、その責任から
謹慎処分を受けた。
嘉永6年(1853年) 6月、アメリカ東インド艦隊のペリーが率いる2隻の蒸気軍艦と2隻の帆走
軍艦が来航すると、応接掛として最初に黒船に乗り込み交渉をした。もっとも中島の関心は
最新鋭の蒸気軍艦には装備されていると思われる炸裂弾を発射できる大砲を検分することに
あった。
ペリー来航後、幕府に提出した上申書には、今は海外諸国の知見を養うことが大事であると
述べおり、カの差を見せつけられた中島ならではの提言であろう。
幕府も軍の必要性を実感し、浦賀奉行所へ軍艦建造を申し付けた。この軍艦・鳳凰丸は日本人の
手による最初の洋式軍艦であり、その中心人物となったのが三郎助であった。しかも9カ月と
いうスピードで翌年5月に完成させている。
こうした三郎助の活躍は広く知れ渡り、長州藩の桂小五郎(後の木戸孝允)が三郎助のところに
弟子入りしている。三郎助は幕府が長崎に開いた海軍伝習所へ派遣され、オランダ人から造船や
洋式砲台の建設などを習得した。
安政5年(1858年)長崎から戻った三郎助は、幕府海軍の草創期に活躍し、多くの後輩を指導して
いる。
また、和歌や俳句を通じて、浦賀周辺の人々とも交流をもっていた。
戊辰戦争が始まると榎本武揚らともに北海道に渡り新しい国(中島のなかでは新徳川幕府)づくりに
親子で参加したが、新政府軍の攻撃を受け、箱館五稜郭近く1869年5月15日恒太郎・英次郎
ともに戦死した。
明治23年(1890年) 5月、名誉が回復され、浦賀の人々の手によって「招魂碑」が建てられた。
その除幕式で中島の意志を継ぐ造船所の建設が提案されて、浦賀船渠が発足した。」


そして「与謝野夫妻の文学碑」もあった。
黒船を 怖れし世など なきごとし 浦賀に見るは すべて黒船 寛
  
春寒し 造船所こそ 悲しけれ 浦賀の町に 黒き鞘懸(さやけ)く 晶子
  冷たい春風の吹く岡の上から浦賀の町を見下ろしたとき、 黒々とまるで鞘のような
      造船所が見えたのを歌にしたと。

碑に刻まれた寛の歌は、 『与謝野寛遺稿集』の「空即是色」に、
晶子の歌は「白桜集」の「色即是空」に収められているとのこと。



与謝野夫妻の文学碑 
碑の歌は、昭和十年三月三日与謝野寛(号・鉄幹)、晶子夫妻が同人たちとともに、観音崎、
浦賀、久里浜を吟行した折り詠んたものである。思いのほかの寒さであったためか、寛は同月
二十六日肺炎で没しているので、これは生涯最後の歌の一つといえる。
寛は、明治六年二月二十六日京都市左京区の願成寺に与謝野礼巌の四男として、晶子
(本名・志よう)は同十一年十二月七日に大阪府堺市の菓子商鳳宗七の三女として生まれた。
明治二十五年上京して落合直文の門下に入った寛は、三十二年の秋に「東京新詩社」を設立。
翌年四月には機関誌「明星」を創刊し、ひろく青年層にロマンチシズムを鼓吹して、短歌の
革新に貢献した。一方、寛の歌に深く心うたれた晶子は、新詩社社友となって「明星」二号に
短歌を発表、以後毎号同誌に投稿する。
晶子が、明治三十三年八月に講演のため来阪した寛をその宿に訪ねたのが、二人の最初の出会い
であった。やがて恋愛の進展に伴い、三十四年六月晶子が上京、この秋正式に結婚した。
同年八月に出版された晶子の第一歌集「みだれ髪」は、世の注目を浴び、新詩社黄金時代の
幕開けとなった。二人は、明治三十年代の詩歌壇を主導して、浪漫主義文芸の花を咲かせ、
石川啄木、北原白秋、高村光太郎、佐藤春夫、堀口大学らの俊英を輩出した。
代表作として、寛に「東西南北」、「天地玄黄」、「紫」、「鴉と雨」、晶子に「みだれ髪」、
「小扇」、「舞姫」、「白桜集」がある。
                                      横須賀市」



浦賀港入口」、遠く房総半島を見る。



ズームして。



グリーンウォッチング ヨコスカ 浦賀コース
グリーンウォッチングヨコスカ事業は横山和夫市長の時代に行われ、1987(昭和62)年に
最初の11コースが選定されました。そののち1989・1993年に追加のコースができ、計3冊の
ブックレットにその詳細が残っています とネットから。



ここにも石碑が。



中島君招魂碑」と。



横須賀市指定市民文化遺産 中島三郎助招魂碑
明治ニ十四年、彼を追暮する浦賀の有志によって建てられたもので、篆額は、当時の外務大臣・
榎本武揚の筆である。愛宕山公園は、この碑の建立の際に整備された。」


裏側には・・・・???



そして「愛宕山公園」を後にして、南側に進み久里浜台/南浦賀の住宅街に向かう山の中の
車道を下る。



山の斜面に張り付いて立っている西浦5丁目の住宅街



南浦賀に入ると左手にあったのが「伏見金守稲荷大明神」。
横須賀市南浦賀11。



朱の鳥居の扁額「金守稲荷大明神」。



内陣には「御幣」が。
御幣とは、神様への捧げ物、お供え物を意味します。
御幣とは細長い木や竹の串に特殊な形に裁った紙垂(しで)を取り付けた物で、神への捧げ物で
あると同時に、神を招くための依り代や、祓いに必要な道具としての面も持ちます。
御幣の用途は2通りあります。
①神主がふる際のお祓い棒として
 周囲の穢れを取り除く目的で使用されます。
②ご神体として
 神社の奥に祀られ、神棚や台所、お手洗いに飾り家内安全を祈るため使用する地域もあります
と ネットから。



スマホのナビに従いひたすら細い下り坂を進む。



そして前方に現れたのが「浦賀奉行所 跡地公園」。



                                ・・・もどる・・・




                   ・・・つづく・・・













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Last updated  2024.05.06 09:43:18
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