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2018.02.16
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カテゴリ:ウォーキング
2月15日
ウォーキング協会が主催する「旧小澤家と山口家と梅・菜の花ウォーク」に参加しました。
気温16度快晴

今回のコース
伊勢原駅⇒専修大学入口⇒小沢家⇒金光寺⇒三所石橋⇒上行寺⇒山口家(昼食・梅園・菜の花)

先ずは西富岡八幡神社で準備体操(地名で、あの富岡八幡宮とは関係ありません)



小澤家
小澤家は江戸時代、西富岡村の旗本、水野氏領の名主を代々勤めていました。
明治以降は鷹部屋村村長や神奈川県会議会員として、村政や県政の発展にも尽力されました。
小澤住宅は、江戸時代末期から大正時代にかけてのものですが、上層農家の建物の特徴が残されているそうです。
表門・主屋(おもや)・庭塀(にわへい)が、国登録の有形文化財

表門
表門は、明治20年頃、平塚宿本陣の表門を移築したもので、旧東海道筋に残る数少ない本陣門として極めて貴重な門です。


主屋(おもや)
今回も参加人数が多いので、3班に分かれての見学になりました。
福沢諭吉の直筆の書もありました。
明治初期の建物で、桁行(けたゆき)11間、梁間(はりま)7間、木造平屋建て、寄棟造、茅葺です。
柱や梁が太く、特に建具や床の間まわりの造作にすぐれ、精密な細工が施されていました。

現在、主屋の一部は実際に使用されているため、通常は一般開放されていません。
当主のご厚意により特別に公開していただきました。


関東大震災で崩れ落ちた蔵の屋根瓦を使用した庭塀(にわへい)

小澤家を後にして次は金光寺へ移動します。


金光寺 寺そのものに特別なものはありませんが、この寺の見所は境内に祀られた岩船地蔵です。


岩船地蔵
金光時の境内には、船に乗った石造りお地蔵さんが祀られています
この地蔵尊は下野国(現在の栃木県)岩船山高勝寺を起点に、1719年から関東一円に広まった流行神仏「岩船地蔵」の地蔵尊の一つと言われています。
つまり、岩船地蔵が村送りで伝えられ他村に伝えて行ったときに、その記念として各地に岩船地蔵が建立されたと思われます。
伊勢原市内には他にも、桜台4丁目85-4(岩船地蔵尊堂内)にあります。

次は三所石橋造立供養塔


この道は、赤坂見附から、東海道柏尾村から大山詣りでの人たちが歩いた大山道で、土地の人は青山道・戸田道呼んでいたようです。
また三所石橋造立供養塔は、この場所とこの近辺に架けられた三ヵ所の石橋を供養するために、1802年に洞昌院の住職と村人達によって建てられました。石橋の供養(道標)ね~!
当時は大変重要なものであったことがうかがえます。道標を撮るのを忘れてました(汗)。
(洞昌院:太田道灌公の墓苑あり)



次は上行寺へ


上行寺は、日蓮宗のの寺院で、富士山上行寺と号する。
この寺は、1567年小田原花木に創建、その1596年に、江戸桜田に移転、さらに数か所に転じた後に、東京芝日本榎から伊勢原に移転されました。
江戸の地に長い期間あったことなどから、寺内墓域には歴史的著名人の墓搭を見ることが出来ます。


上行寺
近代的な造りのお寺さんのように見えますが、現在の地に定着するまでには長~い歴史と事情があったようです。

大橋宗桂(安土桃山~江戸時代期の小技師 初代将棋の名人 信長、秀吉、家康、・秀忠に歴任、信長から宗桂の名を賜る。これは将棋の桂馬から取ったものと言われています。
墓石が将棋の駒の形をしています。将棋ってそんなに古くからあったとは・・
将棋ブームでこれから人気になるかもしれませんよ~?


丸橋忠弥の墓石
江戸時代の武士。出目は不詳で諸説あるようです。
由比正雪とともに慶安事件の首謀者で、槍の名手であったとも言われています。
正雪・忠弥らの反乱計画は事前に漏れ、計画は失敗に終わり、忠弥の母・兄やその縁類を含め正雪らの一味30余人が処刑されたといいます。


室井其角の墓石
1661~1707年江戸時代の中期に活躍した俳人。
豪放闊達、しかも鋭い感覚と豊かな感受性を示した其角は、芭蕉門第一の作者と言われます。
最後の吟「鶯の暁寒しきりぎりす」。
石庭のような造りの墓石です。


桂川甫周の墓石
1754~1809年江戸時代中期の医学者・蘭学者。
代々幕府医官であった桂川家の三代甫三の長男に生まれる。1777年幕府奥医者となる。
前沢良沢・杉田玄白らに蘭学を学び、杉田玄白の「解体新書」翻訳事業には初めから終わりまで参加、協力した。

次は山口家

山口家の建物は、もともと上粕屋の石倉にありましたが、幕末に曳家してこの地に移されました。
この構造は近世民家によく見られる六間取りであるが、明治初頭に二間続きの座敷を二階に増築した、他にに類を見ない古い民家となっている。
上質の木材や銘木がふんだんに使われた屋敷は重厚な趣を醸し、内部の建具も欄間や障子の細部に至るところまで緻密で精巧な細工が施されています。
一階の座敷は書院風、二階は数寄屋風の造りとなっており、民家でありながら武家屋敷のような風格を漂はせている。
また主屋の奥にある奥にある離れは、明治初期に建てられたもので、、宮家をもてなすための特別な部屋であったと伝えられています。
山口家は江戸時代中期ごろ、江戸幕府六代将軍家宣と七代将軍家継の側用人として活躍した間部詮房の弟、詮之がこの地を領するようになり、山口家は間部家の家政に深く関わっていたと言います。
当家の質の高い建築は、こうした家柄とそれに裏打ちされた財力を反映する。
江戸末期の最後の代官所とも言われています。

明治時代には、自由民権運動の結社である湘南社の初代代表に当主の山口佐七郎が就任し、屋敷は湘南港学会の会場としても利用されました。

平成11年に主屋と離れが国の登録有形文化財となっている。


山口家
手前後ろに倉があり、資料館「雨岳文庫」に使用され、主屋後ろに離れがあります。
山口家を本部として、沢山のNPO法人が活動しています。
蔵は大山の歴史などの資料館「雨岳文庫」として活用されています。


山口家の梅園
菜の花には少し早かったようですね。


大勢の参加になったため屋内と野外に分かれての昼食になりました。
当主が皆さんにと、豚汁を作って歓迎してくださいました。


梅の花を持ち帰りに用に準備してくださいました。


暖かくて最高の一日になりましたが、そろそろ花粉の気配・・。





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最終更新日  2018.02.16 20:33:59
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