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前日までの雨が上がり、小田原石垣山一夜城ウォークコース下見に行ってきました。
数十年前に車で来たことはあるが、今回は箱根登山鉄道入生田駅(箱根湯本駅の1つ手前駅)から登りました。 当日早朝まで降っていた雨が上がり、大山・丹沢連峰は積雪。 こんなん風景を眺めながら、石垣山を登る。 登山道は車道で、単調な登りになるのではと危惧していましたが、途中、江戸城の城郭に使用された石丁場などが点在し、目的とは違った歴史を知ることができました。 山から切り出された石を、ここで石垣用に加工して早川より江戸に運んだようです。 石を割るときに石に穴をあける(矢穴?)もしっかり残されている。石塀に使用される大谷石や日向石とは違い、かなり硬い石でした。伊豆や熱海などでも採石され、船で江戸に送られたようです。 この石丁場の上に道路が通っていて、史跡を保存するために橋がかけられていました。 そして石を山の斜面を滑らせ運んだ跡も、数カ所残されていました。 石垣はかなり大きく石垣の表面に出る部分の大きさは60~70センチ角、奥行き1.5メートルの長方形。 正面から後ろにかけ、やや細く加工されています。かなりの重量。 これをどうやって運んだかを皆で想像するが話が尽きません。豊臣秀吉もそうだが、徳川家康もすごい武将だと感じさせられました。 こうした石工は、近江の石工(あのう衆)の知恵があったとも思われる。 一夜城入り口に到着 一夜城は近江の(あのう衆)の石工が動員され、のずら積みで造られた。 江戸城の、石垣とは工法が異なります。 城郭(曲輪)南側の崩れた石垣、当時、関東では石垣造りの城はなく土塁、一夜城が関東初と言われる 小田原城は、土塁の要害で囲まれた守りだが、数万の兵が3か月以上籠城しても、落ちなかったことから後の城づくりにも採用された堀があります。 石垣山の名は、もともと笠懸山、松山などと呼ばれていましたが、1590年豊臣秀吉が小田原北条氏の本処置小田原城を水陸合わせて約22万の大軍で包囲した小田原合戦のとき、その本営として総石垣の城を築いて石垣山と呼ばれるようになった。豊臣方だけで22万。後北条の力はそれだけすごかったともいえます。 この城を一夜にして築いたように見せかけた見せかけたと言う伝承から、石垣山一夜城ともいわれているようですが、延べ5万人を動員して、80日間擁したと言われています。 この時間で、これだけの曲輪を造り、さらに建物を建てたという話は信じがたい。 井戸曲輪あと 水は雨水が少したまったような感じで、とても数万の兵の飲水をまかなえたとは思えない。 おそらく別にあったのであろう。又、周囲はミカン畑が広がり、当時とは様子が違うのかもしれない。 一夜城の城郭の概要図 右上の方向にあるのが小田原城方向です。 二の丸 本丸付近から見ています。 二の丸付近から小田原城がよく見えます。当時はマンション等の高い建物がなかったので、よく見えたと思います。 この後早川漁港に向かいますが、途中、海蔵寺に立ち寄る。秀吉の小田原攻めに参戦した豊臣方の大名、堀左衛門督秀政(越前北の庄18万石)の墓がある。 堀秀政は、秀吉の小田原攻めに参戦して、北条氏の本拠地である小田原本城攻囲中の5月、病に冒されて同月27日、早川の陣中で38才の若さで病没し、海蔵寺埋葬された。 海蔵寺本堂前の赤肌の常緑樹「ビランジュ」がある。この木は、成長すると樹皮がはがれて紅黄色となるので、異名を「バクチの木」「ハダカノ木」とも呼ばれている。 この地が生育の最北限とされている。別に、この近くに国指定天然記念物「早川のビランジュ」があるそうです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2019.12.31 15:03:50
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