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難攻不落の城と言われた小田原城がなぜ
上杉謙信、武田信玄の侵攻にも絶えた小田原城 ボランティア活動が忙しく、ブログの更新もなかなかできませんでしたが、先日小田原観光ボランティアガイドさんの案内で、小田原城の総構え(土塁)を歩いてきました。 国指定史跡小田原城跡 9Kmの総構 北條氏は、1590年の豊臣秀吉の小田原攻めに対し、総構と言われる周囲9km堀や土塁を構築し、その中に城のみならず城下町までを取り込んだ戦国期城郭を築きました。 この大堀切東堀は、総構以前に構築された三の丸外郭に相当し、本丸へと続く八幡山丘陵の尾根を分断しており、敵の攻撃を防御するために築かれた空堀です。 総構とともに小田原城の西側を守る最も重要な場所であったと考えられます。東堀は、幅が25~30m、深さは堀底から土塁の上面まで約12~15mあり、堀の法面は50~60度という急な勾配で、空堀としては全国的にも最大規模のものだそうです。 発掘調査によると、堀には堀障子や土橋状の堀り残し部分の他、横矢折れと呼ばれるクランク部分などが設けられていることが確認されました。こうした堀の構造は北条氏が積極的に用いたもので戦国時代の小田原城の特色をよく表しているそうです。 そう言えば、最近新東名高速道工事で発見された山北町の河村新城も障子掘り・そして箱根の山中城も同様の城郭です。 総構は、関東ローム層と呼ばれる粘土質の土だから可能であったもので、当時の関東の城には、石垣造りの城はなかったと言われています。 画像ではなだらかに見えますが、木がなかったら、簡単には登れません。 天気も良く総構の堀底を歩く(奥の黄色の葉は銀杏の葉です) おそらくこの下には、障子掘りの遺構があるものと思われます。 現在の小田原城(現在) 難攻不落の小田原城と言われたが、その城がなぜ落ちたか謎を探るため、石垣山の一夜城に行ってきます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020.12.26 14:09:26
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