広島カープは、なぜ万年Bクラスのチームになってしまったのだろう
考えても見るといい。30億だしてもいいというピッチャーが、今年までカープのユニフォームを着ていたのだ。そしてカープを愛していた。愛していても出る事を決意したのは、優勝したい。その一念だろう。それに答えることができない球団は、そこのところをどう考えているのだろうか?エースと4番の退団。そりゃあ、一般社会でも、愛社精神は廃れつつあるかもしれない。でも、この二人はカープを愛していた。この事実は重いよ。◇相次ぐ主力流出/10年連続Bクラス/FA見越し「備え」を 毎日新聞 プロ野球・広島カープが低迷している。ペナントレースでは10年連続Bクラスに沈み、今シーズンオフには、黒田博樹投手(32)と新井貴浩内野手(30)がフリーエージェント(FA)宣言するなど、主力選手の流出も続く。栄光の赤ヘル軍団、どうしてしまったのか?【遠藤拓、田中義宏】 カープは昔から、若手を徹底して鍛えて育て、戦ってきた。現役時代に「鉄人」と呼ばれ、黄金期を支えた解説者、衣笠祥雄さん(60)もその一人だ。 「さみしいですね。そんなに魅力のないチームなのか。2人に共通するのは『優勝したい』との思いです。きっと物足りなかったのでしょう」 世の中は転職が当たり前になり、野球選手全体の意識も変わった。「私が選手のころは、滅私奉公の精神が生きていた。先輩に一つの球団を貫く美学を説かれた。現役のころFAがあったら? 想像できません」。そして、長引く低迷について「新人補強がうまくいかなかったり、選手が故障したりと、フロントにとって計算違いが続き過ぎている」と分析する。 広島市出身のタレント、風見しんごさん(45)は子供のころからのカープファン。最初は選手の流出が嫌で仕方なかった。「でも、こうも続くと、逆に(FAで阪神に行った)金本(知憲)選手のように活躍してほしいと思いますね」 風見さんは今年1月、交通事故で10歳の長女えみるちゃんを失った。えみるちゃんも大のカープファン。選手会は風見さんに選手全員のサインを入れた黒田選手のユニホームを贈り、今季で引退した佐々岡真司投手(40)も自分のことのように心配してくれたと言う。 「応援する選手から逆に励まされたのはもちろん初めて。だからカープは、何があっても『おらの球団』なんです」 * 93年秋から始まったFA制度は一定条件を満たした選手が、希望球団に自分の意思で移籍できる権利のこと。元監督の古葉竹識さん(71)は、野球選手にとりメリットのある制度と評価するが、カープに及ぼした影響は顕著だと考える。 「金本は阪神であれだけ働き、若手を引っ張っている。(同じ阪神に行く)新井も金本を見て育った。FAで外に出る人にはそれだけ力がある。失えば、戦力に影響するのは当然です」 一方、同じ広島を本拠地とするマツダは96年に米フォード・モーター傘下となり、順調に業績を回復している。マツダOBで、「広島にカープはいらないのか」などの著書がある広島国際学院大の迫勝則教授(マーケティング論)はこう言う。 「カープは監督に外国人を招いた点でマツダと似ているが、経営は日本型。結果は好対照です。でも欧米張りに金を使えばカープは他チームと同じになり、ファンも素直に喜べない。松田元オーナーが言う『鍛えて戦って勝つ』を貫いてほしい」 確かに、金のないカープが実力で金満球団をやりこめたら、ファンでなくとも胸のすく思いがするだろう。では、カープはどうすればいいのか? 衣笠さんは「難しいが、選手が(FAで)出る時期を見越し、それに備えたチーム作りをするしかない。才能豊かな子を、長期的計画に立って育てる。米大リーグにも、限られた予算で勝つチームはあります」と指摘する。 古葉さん率いるカープがセ・リーグで初優勝したのは75年。前年まで3年連続で最下位にあえいでいた。風見さんはそのころを思い出す。「『太陽が西から昇っても優勝できない』と言われたが、厳しい練習で選手を育てて乗り切った。今のチームも歯を食いしばって努力すれば、優勝できるはずです」 戦いは、すでに始まっている。 ◇わが故郷、愛する球団 夢の中にいざない続けて--玉木研二 広島はわが故郷。「カープ」には郷愁と愛憎ない交ぜになったような響きがある。昭和40年代までの私のカープは、こんな具合だった。……シーズン終わり近く、スタンドの客はまばら。最下位確定後の消化試合は秋の薄暮。酔っ払ったどこかのオヤジが失策を見ようものなら「おどりゃ(と選手を名指し)、何しょるんなら! 夜遅うまで流川(ながれかわ)(市内随一の歓楽街)で遊んどったろうが、わしゃ見たで」とおらぶ(大声を上げる)。 こんな光景を庶民的などと記述するのは間違いで、私はただ恥ずかしく、ゲーム終了とともに逃げるように球場外に出たものだ。 時を経て、私が記者になり、遠く大分で働いている時、カープはとてつもないイメージチェンジをした。ユニホームを一新し、「赤ヘル軍団」と称揚され、あれよあれよという間にリーグ優勝した。1975(昭和50)年である。大分ではテレビ中継がなかった。その後楽園の試合、私はカーラジオにすがり、かがんで涙をぬぐった。 江夏の21球の79年、80年の連続日本一、西武との因縁の日本シリーズなどその後の栄華に思いを注げばきりがないし、懐かしむのも気恥ずかしい。そして氷河期ともいうべき今。私は球場で「勝敗を超越した楽しみ」をひそかに味わう。 今季も首都圏各球場、時が許せばカープ遠征試合に行ったが、勝ったのはたった1回、スワローズ相手の神宮だった。 黒田がもう一人おったらのう、とか、大竹いうのはええ球投げるが、もうちょっと度胸が欲しいのう、などと一選手、一投一打を味わうように見守り、胸中に夢想を抱きながら評するのである。点が入れば左翼スタンドは大騒ぎだ。 ♪宮島さんの神主が、おみくじ引いて申すには、今日もカープは勝ち勝ち勝ち勝ち…… いつのころ生まれた応援歌か知らないが、「花咲かじいさん」のメロディーで合唱、万歳三唱するのだ。涙腺が緩いので片手にハンカチが必要になる。 目に焼き付けた感動場面はいくらでもある。例えば、05年のシーズン終わり近く、名手・野村謙二郎が東京で最後のゲームの夜。神宮は右翼のヤクルト応援席が野村コールにどよめき、終了後にカープ応援歌がそこから上がった時、不覚にも涙が止まらなかった。 また同じころ、ひそかに期待をかける沖縄尚学-早稲田出身の比嘉寿光が1軍試合に代打で初登場、その奇跡のようなホームランを染めた横浜の夕焼け空を忘れない。比嘉の1軍公式戦本塁打は今に至るまでその1本しかない。 ああカープよ。金に飽かしてスター選手を取る、なんて、ほんとは一度でいいからやってほしいが、見果てぬ夢だ。どうせ見果てぬ夢ならば、映画「フィールド・オブ・ドリームス」で夜な夜なトウモロコシ畑から現れて野球を楽しむ冥界の名手たちのように、のびのびしたプレーで私たちを夢の中にいざない続けてほしい。(論説委員) 2007年12月6日