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カテゴリ:保護者問題(親問題)
つながりや絆ということを題材にぽつぽつと書いてみましたが、「だからどうすりゃいいの!?」って言われると、「はああぁぁぁ」と、言葉に詰まってしまうというのが実際です。 「えっ、友達?どうして隣の席の○○君と僕が友達なわけ??」 と疑問に思っている顔をします。「とりあえず同じクラスの人は友達と呼ぶ」という前提が成り立たない世界。S君の感覚は私にもわからないでもないし、いろいろな考え方があればいいと思うけれど、小学生の頃からこんな感覚って、どうなんでしょう??小学生時代ぐらいは「とりあえず同じクラスの人は友達と呼ぶ」という感覚を「型」として持っていてもいいのではないでしょうか。青年期になってから、その「型」を疑ったり批判したらいいのではないでしょうか?? 生きるとは何なのか。自分とは何なのか。他人とは何なのか(つまり、他人とはどうつながっているのか)。繰り返しになりますが、そんなことを考えるための「型」が何もないままで育ってきてしまっている子供(いや既に大人も)がたいへんな割合で増えているのを実感します。
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人が死と対峙するという行為が薄れていることをどうにかしなくてはと思っている人は少なくないようです。 学校現場の中で「死」を取り扱う教育実践はあるにはありますが、そんな実践が浸透するには、草の根的な実践の積み重ねだけでは難しい面があるかもしれません。現場を大きく動かすのは大きな組織的な力、つまり文科省からの強力なトップダウンが必要です。 「命の教育をせよ」との声は1990年代後半の少年の殺傷事件が多発したころから言われているものの、これを「死を通して命を考える」という形で進めるところまでは、踏み込めずにいるのが現状だと思います。私だってこんな記事を書きながら、十分なことはできていません。強制されないのであれば、進んでこの重い役割を担おうと思う教師は少ないでしょう(だからこそ、家庭が頑張らないといけません)。 ------------------------------------------------- 最後に私が「つながり」をどう考えているかも一部を書いておこうと思います。 自分の中で特に結論が出ているわけでもないけれど、先人の思索と混じり合わせながらだらだらといろいろ考えています。中でも「利己的な遺伝子」は、衝撃とともに考えさせられる本でした(「1Q84」の中でもとりあげられていた本です)。 科学の目を通して見ることによって、生きることがいったいどういうことなのかについて、また違った見え方がしてきます。遺伝子的につながりというものをみれば、こんな風にも考えられます・・・。 個人など、たったの100年を生きることも難しいのです。「人は死ぬ。」だから子孫を自分のコピーとして残すのでしょう。・・・コピーを残すと言っても、個人は、子の代で1/2、孫の代で1/4、ひ孫の代で1/8、 ひひ孫の代になれば1/16にまで薄まってしまいます。 身長160cmの人で、4代後(100+α年後ぐらい?)には 10cm分しか自分を残すことができません。 その上、誰もが子孫を残すことができるわけではありません。考えてみると実に寂しい話です。 その一方で、2人ずつの子供を残していくとしたら、ひひ孫は16人→ひひひ孫は32人→・・・→30代後には 10億人(2の30乗)を突破します。 この逆を考えてみるのも面白いです。一人に2人の親がいたことを考えれば30代前(1代30年としても900年前)には 10億人の先祖がいたとも言えます。 それは人口動態の事実に反するので、相当な先祖同士の結婚(重なり)があるということになります。つまり、けっこう私たちは先祖を共有しているということでしょう。私たちは遺伝子情報をばらばらに交換しながら薄まり、広がり、今までもつながってきた。そして、この先もつながっていく。少なくとも、こういう意味では、人はつながっているのでしょう。なんとかして、つなげていきたいです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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