カテゴリ:スポーツ
昨日は平昌オリンピックで日本選手が3つのメダルを獲得しましたがこれは価値あるメダルです。金メダル間違い無しなどの過度の期待は選手に大きなプレッシャーになったことでしょう。メダルの色は望んだものでは無かったけれど、プレーッシャーと闘いそれを跳ね除けての快挙でした。
今回のオリンピックで日本人初のメダル獲得はモーグルの原選手で銅メダルでした。金メダル候補の同僚選手が転倒で決勝進出が果たせなかった中で健闘しましたね。フリースタイルスキー男子では初のメダル獲得の快挙でした。 スピードスケート1500では高木選手が銀メダルを獲得。トップに0.2秒及ばず残念でしたが銀メダルは女子スピードスケート史上初の快挙です。ジャンプの高梨選手も銅メダルを獲得、女子ジャンプ史上初のメダルの快挙です。
高梨選手は前回のオリンピックで「金メダル間違い無し」との評価、国民の期待も大きかったのですが予想だにしない4位でメダルに届きませんでした。その時、高梨選手は両親に「日本へは帰りたくない」と漏らしたそうです。金メダルへの期待とそれを裏切ってしまったという切ない気持は我々には想像もできないものでしょう。
少し古い時代の話になりますが、オリンピック選手へのプレッシャーの話として出されることが多いのが水泳の前畑秀子選手のことです。1932年のロサンゼルスオリンピック「女子200メートル平泳ぎ」で銀メダルを獲得。トップとは0.1秒差という惜しい結果でした。本人は銀メダルを獲得して誇らしく日本へ帰ってきました。しかし日本で待っていたのは「なぜ金をとらなかったのか」というバッシングでした。 当時の永田秀次郎東京市長にも「なぜ金メダルを獲れなかったのだ」と言われるなどでショックを受けます。このオリンピックを機に引退を決めていた前畑選手でしたが、周囲からのプレッシャーで現役続行を決意します。 1936年のベルリンオリンピックは「金をとらなければ日本へ帰れない」ものとなりました。本人は「金メダルをとれなければ日本へ帰る船から飛び降りて死ぬ」ことを固く決意していたそうです。その時のことを振り返って本人は「神様、助けて下さい」と祈りながら必死に泳いだと話しています。結果として金メダルを獲得したので死を免れました。
私の記憶の中にはマラソンの円谷幸吉選手のことが鮮明に残っています。彼は1964年の東京オリンピックで銅メダルを獲得、これは東京オリンピックで日本が陸上競技において獲得した唯一のメダルでした。男子1万メートルにも出場し6位に入賞、日本陸上界を救ったと高く評価されました。彼は次の目標を「メキシコシティオリンピックでの金メダル獲得」と宣言しました。 しかし彼はその後に不運に見舞われ翻弄されます。自衛隊体育学校の所属でしたが、彼の理解者だった校長が変わり新たな校長に。それまで選手育成のために許されてきた特別待遇を見直す方針変更が打ち出されます。更には、円谷は婚約していましたが新校長は次のオリンピックの方が大事だとしてそれを認めず破談となってしまいます。
その後に彼は幹部候補生学校に入校することになりましたがトレーニングの時間の確保にも苦労するようになります。そうした悪環境の中でも周囲の期待に応えるため無理を重ね腰痛が再発。病状は悪化して椎間板ヘルニアを発症し手術を受けましたが、病状は回復したもののかっての走りができなくなってしまいました。メキシコシティオリンピックの開催年となった1968年の年明け間もない1月9日に、自衛隊宿舎の自室で頚動脈を切って自殺しました。27歳でした。 遺書の最後には「父上様母上様 幸吉はもうすっかり疲れ切ってしまって走れません 何卒 お許し下さい 気が休まる事なく御苦労御心配をお掛け致し申し訳ありません 幸吉は父母上様の側で暮しとうございました」とありました。
私は円谷選手が銅メダルを獲得した時の様子をテレビで見ていました。ゴールの国立競技場に2位で戻って来た時には後ろにイギリスの選手が迫っていました。「頑張れ!」と心の中で叫び応援しましたが結果として追い抜かれてしまった時のことを思い出します。自殺をした時にもニュースでそれを見ていました。如何に思い悩んで自殺を決意したのかと思い涙がこぼれました。 今はその当時とは環境もプレッシャーも大きく異なると思います。でも期待に対する重圧は相当なものだと容易に推察できます。勝負である以上はメダルを取ることは大切なことだと思いますが、結果はどうあれ選手が必死に頑張ったことを評価しその健闘を讃えたいと思います。
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