テーマ:夏目漱石(54)
カテゴリ:読書
私は色々な本を読むけれども、その本よりも「その本が書かれた背景」「著者の人生や人柄」「裏話」などが面白いと感じることがあります。今回紹介するお話は30年ほど前に購入した「夏目漱石ものしり読本」に掲載されたものが元となっています。
夏目漱石の出世作は誰もが知る「吾輩は猫である」ですが、漱石が最初に考えたタイトルは「猫伝」です。同時に「吾輩は猫である」とのタイトルも考えていてどちらにするか決めかねていました。「ホトトギス」の編集をしていた俳人の高浜虚子に相談して最終的に決めたとのことです。 タイトルが「猫伝」であればそれほどの人気が出なかったかもしれませんね。ホトトギスに掲載されて大人気となり結局2年間にわたって連載されました。 「吾輩は○○である」が大流行したとのことで「吾輩は猫ではない、吾輩は人間である」「吾輩はまんじゅう屋である」「吾輩は豆腐屋の息子である」などと使われたとのことです。 明治38年の1月にこの作品が発表されると、その年の9月には芝居となって三崎座という劇場で上演されました。かなり評判となって一高の漱石の生徒たちも劇場にずいぶんと押しかけ「先生もぜひ一度みるといいですよ」と勧めるものもいたそうです。漱石もかなり興味をもったようですが結果的には一度も見に行かなかったとのことです。 この作品は「吾輩は猫である、名前はまだ無い」から始まりますが、結局この猫は死ぬまで名前をつけてもらえませんでした。漱石は犬派で猫はそれほど好きでは無かったようです。 そもそもこの猫は漱石が飼ったものではなく、野良猫で漱石宅にぶらりとやって来たのが最初でした。何度外へ放り出しても毎朝かってにやって来て根負けして飼うようになったとのことです。 飼うといっても放任主義で飼われていたので名前を呼ぶ必要さえありませんでした。どうしても猫の名前を呼ばなければならなかった時には「おい、猫」と声をかけていたそうです。 この猫は図々しい上にいたずら好きで夜中に漱石の娘の足をかじって夜泣きの原因にもなりました。漱石は激怒して物差しを持ってこの猫を追い回していたそうです。 この猫が元気が無くなった時には漱石もとても心配したようです。名前さえつけなかった猫ですが、体が弱ってからは優しく接していたとのこと。それからしばらくして夜中に冷たくなって死んでいました。6歳だったと言われています。 漱石の妻と子供たちが庭に墓を作ってあげました。白木の墓標には漱石が「この下に 稲妻起こる 宵あらん」と記しました。それから親しい友人らにあてて猫の死亡通知を出しました。 死亡通知全文 辱知猫儀久々病気の処、療養あいかなわず、昨夜いつの間にか裏の物置のヘッツイの上にて逝去致し候。埋葬の儀は車屋をたのみ箱詰めにて裏の庭先にて執行致し候。ただし主人「三四郎」執筆中につき、御会葬には及びもうさず候。以上 これに対し一流文化人からも弔句が寄せられました。「先生の 猫が死にたる 夜寒かな」松根東洋城、「吾輩の 戒名もなき 芒かな」高浜虚子、「猫の墓に 手向けし水の 氷りけり」鈴木三重吉、「蚯蚓(みみず)鳴くや 冷たき石の 枕元」寺田寅彦。 この猫の墓は漱石の死後に雑司ヶ谷の墓地に移されたいそう立派な九重の塔となったそうです。 「吾輩は猫である」には贋作がありその名も「贋作 吾輩は猫である」で著者は漱石の弟子で随筆家である内田百聞です。この作品は本家である漱石と比べても「勝るとも劣らない」との評価があります。作家の伊藤整は「能狂言のようなその芸は、一種芳醇な酒の味に似ている」と絶賛したとのことです。 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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