生かされているのだと。
毎日のように大きな地震が日本各地で起こり、人々の気持ちがどんどん暗く不安になって行っています。これは、ちょうど戦争中の群衆心理に近い気がするのです。そんな中、こんなニュースが有りました。『電力会社社員、志願し福島へ』地方の電力会社に勤務する島根県の男性が、定年を半年後に控えながらも、被爆覚悟で福岡の現地へ志願して応援へ向かわれたそうです。そんな人がいるかと思えば・・・『鹿児島の団体 原発停止求める』なんて、まずは自分達のことを考える人たちもいるようです。今まで、私達現代人はエネルギーを思いきり使い近代文明を謳歌してきました。電気を全く使用しない生活に耐えられる人がこの日本にどれほどいるでしょうか?電気は必要だけれど、電気を発電する原発施設は自分の家の近くに欲しくない。それは、米軍の基地問題と同じで、必要性は理解できるけれど自分がその被害を受けるのはイヤだという気持ちと同じでしょう。人は平和であればあるほどに、利己的に自己中心的になってしまうのでしょうか?でも、この電力会社社員のような自己犠牲的精神を持つ日本人も確かにいるのです。私は、去年の夏の合宿中に生徒たちと共に茨城県稲敷郡阿見町ある「予科練平和記念館」を今年の正月には、同町にある自衛隊駐屯地内にある「予科練記念雄翔館」を見学して来ました。「予科練」とは、「海軍飛行予科練習生」つまりは、少年航空兵のことです。彼らは、国を、家族を、愛する者を守りたいとう志の元に、苦しく厳しい訓練を耐え抜いて優れた人間形成した、少年航空兵でした。予科練生達は、今から約70年前に始まった太平洋戦争の際、最後には、全員特別攻撃隊員となって、一機一艦必殺の体当りを決行しました。名も命をも惜しまず、何のためらいもなく、ただ国を救う為にその若き命を祖国防衛のために捧げました。記念館には、そんな予科練生との日常品や遺品、遺書、日記、訓練日課など多くの資料や記念品が展示されていました。また、実際に神風特攻隊として彼らが乗った飛行艇が敵艦に突撃していく姿や、途中で撃墜される映像なども上映されていました。彼ら特攻隊は、敵艦を見つけると、本部へ「ツーツー」というモールス信号を送ります。そして、そのまま「ツーーーッ」という信号音を出したまま敵艦へ飛行艇ごと突っ込むのです。その「ツーーッ」というモールス音が消えた瞬間こそ、まさに、彼らの尊い命が散った瞬間なのです。そんな彼らが出撃前に書いたという遺書の一部がこちらにも掲載されています。そんな中から、ふたつの遺書をご紹介します。========================================================今度攻撃命令を拝して、出撃することになりました。日本男子の本懐これに過ぐることなく、喜びに耐えません。父上様方も聞かれましたら、さぞかしご満足されることでしょう。今更言う事はありませんが、一寸の孝行もせず、ただただ二十年の人生を育てて下された父上様、母上様、祖母様方に何とお詫び申し上げてよいか判りません。まだ戦争に行ったことがないので不安な点もありますが、弾が命中したら、必ずや敵の空母を撃沈します。突然でさぞかし驚かれると思いますが、立派に男子の本懐を全うします。出発まで時間がありません。一言、最後の言葉を。昭和20年4月7日二飛曹 清水雅春 18才神風特別攻撃隊第三御盾隊として、沖縄海域にて特攻戦死========================================================何も書く事はありません。 只御両親様及び久美子の健在を祈るのみ、勲は決して人におくれはとりません。潔よく散るのみです。目標は正規空母です。十日位したら徳島海軍航空隊第14分隊5班、上野功君に便りして下さい。 写真は受けとったと泣かずにほめて下さい。幸多かれと祈るなり、親戚の皆様に宜敷く。孝養を頼むぞ久美子、安よ頑張れ。 宮崎航空基地にて御両親様 神風特別攻撃隊第六菊水隊 昭和20年5月10日 午后5時48分海軍一等飛行兵曹 伊東 勲 享年20才大分県九重町町者原出身 乙飛18期 ========================================================まだ、20歳や18歳の若者が、厳しく辛い訓練を耐え抜き親兄弟や国を守るために、片道の燃料だけを入れて敵艦へ出撃する前に家族へしたためた手紙の数々に胸が熱くなりました。中には、「本当はこんなことは言ってはいけないかもしれませんが一目だけでも母上様のお顔を拝したかった・・・」など、涙なくしては読めない手紙、遺書も有りました。この伊東勲さんは、死亡時刻まで判明しているということは、まさに、この時間、この瞬間に、彼が特攻して散った時間なのでしょう。確かに彼らは、私達と同じ日本人でした。苦しい、辛い軍隊生活と訓練を耐え抜いて、強い精神と肉体を育みそして、その全てを賭して敵艦へ挑んで行ったのです。もしかしたら、彼らの死を無駄死にだと言う者もいるかもしれません。しかし、彼らの命の尊さは、現代の私達の命に等しくそれ以上に重いのです。今も、命の尊さ、戦争の悲惨さや無意味さを教え続けてくれています。そして、その自己犠牲的な精神の美しさは、今も輝き続けています。そんな彼らが、命がけで守ろうとした日本。その日本の今を彼らが見たら、がっかりするのでしょうか?こんな国を、こんな国民を守るために俺達は、命を駆けたのか!?と、悲しむでしょうか?私達だって、彼らと同じ日本人なのです。彼らのように、強く、優しく、今の状況に立ち向かうことができるはず。確かに、今回の地震と津波は天災なのですが、その後の出来事は、人災とも言える気がします。これは、日本人と災害との戦いです。66年前の日本の若者は、我が身を顧みず、純粋な犠牲的精神で大切な人や国を守ろうとしていました。もちろん、彼らの父親や兄弟達のほとんどが戦場に立ち、先立ってもいました。今の私達も自分達のことだけを考えるのは無く、家族を友人を大切なものたちを守るために、もう少し強くなるべきなのでは無いでしょうか?被爆の怖さや正確な症状も知らずに、右往左往して自己防衛に走るのではなく国民が一丸となってこの国を立て直すべく、一致団結すべきだと思うのです。広島や長崎での原爆被爆者の方でも、今も生きておられる方もいます。原発の放射能汚染の数値と被害が、原爆と比較して、どれほどなのかは未知数ですが、いたずらに怯えて、保身に走り、実際に援助待っている被災者の支援を妨げるような行為をするのは如何なものかと思う次第です。誰でも我が身はかわいいものです。死ぬのは怖いです。痛いのも、苦しむのもイヤだと思います。でも、それぞれが自己保身に走ることは、逆にお互いの首を絞めることになります。私は、20代で癌になりました。抗がん剤も体質に合わず欝になる後遺症が出てしまったので半年以上の投与が必要でしたが、半月でやめてしまいました。手術後は、余命5年と覚悟して生きていました。いつの間にか、再発の可能性が限りなく0に近くなるという10年も経過し、今もこうして日々生きています。でも、心のどこかで、いつでも死を受け入れる覚悟は出来ています。なぜなら、私より若くて健康だった人でも、今回の地震で、津波で一瞬にして命を奪われた方も大勢いるように、人の命なんて、わからないものだからです。無限にあると思うと粗末にしがちな一日も、明日もしかしたら無いかもと思うと、一日一日が大切に思えます。出会いも別れも、一期一会という事を実感できて、一日の重みが増すように思えるのです。私は、生きているというよりも、生かされている気がしています。私にも、私が生きる必要と使命が与えられているという気がしています。私に課せられた使命は、本当に些細なことで、私の役割なんてちっぽけなのかもしれません。それでも、アリの命ほどのちっぽけな役割だとしても、人の世の一部として必要とされている限りは私はまだ、この世に生かされている気がしています。だから、私は私にできることを、私の置かれた立場で私なりのベストを尽くせば良いのだと思っています。人は生きているのではなくて、生かされている。反対に亡くなったとしても、輝き続ける命もある。亡くなった後でも、その役割を果たし続ける命もあるのです。そう、若くして愛する者のために亡くなった予科練生達のように。だから、生きている私達は、むやみな不安で自分を見失わないように心がけて被災地の方々に速やかに援助が届くように、自分の役割を見極めて、自分にできることをしましょう。。ちなみに、人体に対する放射線の影響の数値はこちらを参照して下さい。いたずらに怯えないようにしましょう。1,000μsv/h(=1msv/毎時)程度漏れているようですが、一回のCT検査でも7~20msvの放射能を浴びますので、今のところ人体に影響があるレベルでは無いとの判断です。また、放医研が被ばくの基礎知識をネット上に公開していますので参考にして下さい。一日も早く、落ち着きますように・・・。