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テーマ:『義経』(332)
カテゴリ:源義経
院の御所での後白河法皇と丹後局との会話に、
「頼朝が鎌倉に都を造ろうと画策している、武士の分際で恐れ多いことを思いつくものである・・・」というやりとりがあった。そこで、頼朝は法皇に”東夷(あずまえびす)”と蔑称で呼ばれている。 ”夷(えびす)”は、恵比寿(えびす)や毛人(えみし)、蝦夷(えみし)と同じ意味で、古代から東方にすみ まつろわざる人(朝廷に従わなかった人びと)のことをいった。 ”えみし・えぞ”というと、東北やアイヌの人をイメージしがちだが、時代・地域によってその呼び名は異なる。古代の朝廷政治の復活をめざす後白河法皇にとってみれば、”頼朝”も”えみし”ということなのだろう。 遣唐使の時代(659年)、ある遣唐使が蝦夷の男女2人を同道し唐の高宗と謁見したことがある。その時、唐の高宗に「蝦夷は何種類あるか」を尋ねられ、 「類(種類)に3種あって、遠き者を都加留(つかる)、次の者を麁蝦夷(あらえびす・荒々しい蝦夷)、近き者を熟蝦夷(にきえびす・従順な蝦夷)という。これは熟蝦夷である。」と答えたという。 都加留は津軽だろうか?東方の蝦夷の種類を限定することは今ではむずかしい。 ところで、出羽に郡が建てられた頃(714年)、尾張、上野、越前、越後から農民が移住したという記録もあるように 古くから出羽、陸奥には少なからずの東国人が移住していた。 また、武装植民(柵戸)や”夷をもって夷を制す”の政策(元慶の乱など)で駆りだされた兵士には東国(坂東諸国)人も多かった。陸奥と東国は関わりが深かく、朝廷からみればともに”夷”とみられていたことがくみとれると思う。 義経の時代は、平安貴族社会の終焉の時代。今回の放送での法皇のやりとりは、朝廷の東国に対する見方が古代からの流れもくんでうまくあらわされている。 東国には平将門の乱があり、陸奥には前九年、後三年の役(戦争)という大きな内乱があった。”頼朝”の決起を後押ししたものには、西の朝廷に振り回されてきた歴史を変えて、東国(武士)が自立(独立)するという意味合い(悲願)もあったのだと思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2017年12月30日 11時49分13秒
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