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カテゴリ:古代史 <出羽の国>と<日本>
前回の日記で古くから出羽・陸奥の地域に東国の人たちが移り住んだことを取り上げたが、その逆に蝦夷の人たちが東国などに移りすんだこともあったことをとりあげたい。
すべての具体的な年代は分かっていないが、”陸奥の俘囚(蝦夷)144人を伊予(四国)に、578人を筑紫(九州)に、15人を和泉(大阪)に移配した(移住させた)”など、725(神亀2)年を初めとした資料がある。しかし、その以前からその後も何回となく各地に移住させられたことがあったようだ。ちなみに724(神亀元)年が多賀城が創建(完成)された年になる。 はっきりした定義はむずかしいのだが、”農耕を主としないような蝦夷のことを俘囚(ふしゅう)・夷俘(いふ)”といった、とされる。俘囚は、奥羽以外にもいたのだが、多くが征夷としてとらえられたりした蝦夷と考えられる。 ある時期の俘囚の移住させられた地域(国)をみると、近江(滋賀)、下野(栃木)、常陸(茨城)、播磨(兵庫)、甲斐、筑前、武蔵を主として全国各地に及んでいる。 移住の目的は、強硬で反抗的な蝦夷の人たちを現地から隔離することだった。そうして狩猟的な生活風俗から、農耕の生活風俗に順応させ、同化させることだった。 移住させられた蝦夷の人たちには、その後、順化して位をあずけられたり公民化したりした人も多かった。しかし、狩猟などの生活様式が合わなかったのか、不満があったのか、 ”諸国夷俘等、朝制に遵(したが)わず、多く法禁を犯す(812(弘仁3)年)” ”朝化に従うといえども、未だ野心を忘れず。・・・遂に叛逆を致す(813(弘仁4)年)”など、反乱をおこす人も少なからずいた。 蝦夷の人の特徴である強さはよく利用されて、宮廷の特殊労役奉仕集団(親衛兵)になったり、鎮西(大宰府の外寇防衛など)の防人として派遣されたり、地方の治安維持をさせられたりもした。それは南の隼人と似ている。 しかし、蝦夷の人たちの各地での反乱は根本的な解決は見ることはなく、特に坂東では10世紀前半の”武士の反乱”、中世的内乱の時代に入っていくことになる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023年03月18日 13時49分40秒
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