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テーマ:ノンジャンル。(2210)
カテゴリ:古代史 <出羽の国>と<日本>
小さいときから見慣れた絵ではあるが やっぱり蜂子皇子の顔は怖い・・・今もって畏れる。 (絵は江戸時代初期の天宥の作とされる。羽黒山パンフレットより。) ところで蜂子皇子が生まれた場所はどこなのか? 理由あって大和から来たといわれているが、古代、大和から出羽までの道のりは大変であったろう・・・などと、漠然と広い奈良県を想像し考えていた。 が、調べてみると なるほど!と思えることがいくつかある。 歴史上のさまざまな人のつながりがあるようにみえるのだ。 蜂子皇子は、出羽三山の開祖。 父は 崇峻天皇であり、母は 大伴小手子、その大伴氏は古代大和の名門氏族であった。 まずは、父の崇峻天皇から。泊瀬部皇子、記紀では 第32代の天皇。 当時、天皇という名称はなく 大王(おおきみ)とよばれた。 崇峻天皇の宮は、倉梯にあった。在位中には飛鳥寺(法興寺)の建築がはじまり(完成は推古14年)、 蘇我馬子により、廃仏派の物部氏が滅ほされ仏教文化が多く取りいれられたりする時代である。 結果的には崇峻天皇もその馬子に殺されたとされる。在位中に臣下に殺されたという天皇はめずらしいのだそうだ。 崇峻天皇には別名があって、またの名を“はつせべ(はせべ)の わかさざき”という。 “はつせべ(初瀬/泊瀬/長谷部とも書く)・の”は初瀬という部落、集落の出身という意味にとれる。 苗字に出身の地名をつけるのと同じ考え方からだ。 “初瀬”は三輪山南側の初瀬川沿い。 部落(集落)といってもいいだろう、狭く小さな地区である。 三輪山西側の大神神社、いわゆる山の辺の道など三輪山の周辺は、 大王(古代天皇)家の本拠地と考えられている。 三輪山の南側の“初瀬”地域もそういう大王家ゆかりの場所の1つなのだ。 崇峻天皇もここの集落に生まれたひとではあるまいか。 話題がそれるが、他の天皇の別名は・・・というと、やはり“はつせ”という名を持つ天皇がいた。 21代雄略天皇(お・はつせ・のわかたけ)、25代武烈天皇(お・はつせ・のわかさざき)だ。 2人とも残忍な性格といわれ、すこぶる評判がわるい。伝説上の人物とされてはいるが、同じ”はつせ”がつくのでもし実在したなら、初瀬地区の出身だったのではないかと思う。 ただ、あまりに評判のよくない2人がうまく並べられているので“記紀”を書いた時の 権力者・藤原氏の“初瀬”に対する悪意を感じるのは、考えすぎだろうか。 一方、名前方の“さざき”がつくのは16代仁徳天皇(おお・さざき)がいる。 伝説上もっとも 徳のあった天皇とされた。 “さざき(鷦鷯)”とは体長が10センチほどのスズメ目ミソサザイ科の小鳥の名前。別名“みそさざい”で、ヨーロッパからアジアに広く分布する。 。 “わか”には“あとつぎ”の意味がある。 仁徳天皇の徳を継ぐという意味がこめられたのかもしれない。 このように崇峻天皇は古い伝説上の天皇と一部、同じ名がつけられていた。 蜂子皇子はこの大王家ゆかりの三輪山周辺“初瀬(泊瀬)”地域で生まれたのだろうか・・・。 <写真>多武峰(とうのみね)、 淡山神社前の道には次の石標があった。 ”左:はつせ、 右:よしの、おのてら(?)” と読める。これからも ”はつせ”が要所であったことがうかがえる。 次は母方、大伴家を考えたい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年03月11日 23時51分13秒
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