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テーマ:ノンジャンル。(2210)
カテゴリ:古代史 <出羽の国>と<日本>
今日の新聞にも早春の奈良の特集があった。
日本の古代史でも重要な場所だが、棚田がうつくしい場所でもある。 引き続き 蜂子皇子のふるさとを考えたい。 蜂子皇子の母は "大伴小手子"。小手子の父は糠手(あらて)。 その出身、大伴氏は古代屈指の名門で、古代において物部氏とともに 天皇家の軍事的な役割を担い、大王政権の初期の段階には政治のあらゆる部門を 統括した最高執務官であった。 宮門の警護を伝統的職掌とした氏で 靫負(ユゲヒ・矢を背負った武装兵士)部の長といわれる。 伝承の家訓には ”海ゆかば 水浸(みつ)く屍(かばね)山ゆかば 草生(む)す屍(かばね)、 大君の 辺(へ)にこそ死なめ 長閑(のど)には死なじ” (大王といっしょに戦い やすやすと死なない) があるほど、大王自らが先頭にたって戦をした古い時代から強いつながりがあった。 松本清張は 大伴氏は古代に大王家と一緒に日本に渡ってきた人々であると考えていた。 また、大伴氏は渡来系(とりわけ朝鮮半島(百済)系)の人々とつながりがあったといわれる。 (写真:現在の寺川・聖林寺 近く上流を望む。) 前回取り上げた大王家の拠点、大神神社(三輪山)の南側の初瀬川のさらに少し南側に“寺川”(右)という川が流れている。 この川の周辺が大伴氏の拠点といわれるところだ。 この川の上流には崇峻天皇が即位した倉梯(くらはし)の宮もある。 そこは現在の“倉橋”で山の谷間。 奈良盆地の中心からみた場合に大伴氏の拠点の奥側にこの倉梯(くらはし)の宮が位置した。 寺川のさらに上流は道が狭くなり吉野へとつながる峠であり、倉梯の宮にゆくには大伴氏の拠点を通らなければならず、それはあたかも宮が大伴氏に守られたような形だ。 これは故意に崇峻天皇が 大伴氏にまもられる場所に宮を構えたと考えられないだろうか。 蜂子皇子の生まれた場所に話をもどそう。古代は一夫多妻の通い婚とかんがえられている。 蜂子皇子は、母、小手子の家で生まれたのだろう。 現在の桜井市、寺川沿い、倉橋近く、が蜂子皇子の故郷、生まれたところ・・・と推測できないだろうか。 (写真:聖林寺から北側をみる風景、三輪山方向を望む。ここから見た風景のどこかに 蜂子皇子の生まれた場所がある・・・と思う。) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年03月11日 23時41分09秒
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