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出羽の国、エミシの国 ブログ

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2007年08月08日
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 大げさにいうと、なぞを解明しようと思っている。
今は”平の将門が、なぜ羽黒山(山形県)に五重の塔を建てたのか?・・・”と
いうなぞに挑戦中。ホームページにコラムをもうけて、考えようとしてかなりたつ。
で、なにかなぞを解く手がかりがないかと、“平の将門がはじめて朝廷に反旗を翻した”と
いわれる場所、に行ってみた。常陸の国・国分尼寺

 その場所というのは、常陸の国、国分尼寺
いまの、茨城県石岡市にあたる、そこには当時の建物はないが、広い敷地が保存、整備されていた。 
< 写真 → 石碑(常陸国国分尼寺 法華滅罪之寺跡)と遺跡 >
国分寺のあとはわかっても、国分尼寺のあとがわかっているというところは、全国的にめずらしいのだそうだ。

 なぞを解く手がかりは発見できなかったが、将門に思いをはせたあと、ちかくに別の遺跡の案内板がみえたので
それを手がかりに“鹿の子遺跡”という遺跡に行ってみた。

鹿の子遺跡は、1979年(昭和54年)常磐自動車道の建設工事の際、見つけられたという遺跡。

 発掘の結果、奈良末期から平安初めの竪穴式住居(169軒)掘立柱建設物
鉄製品などの工房跡が発見され(全224以上)、
8世紀後半からの 対蝦夷への物資供給の前線基地と思われる場所なのだそうだ。
8世紀後半と言えば、“阿弖流為と坂上田村麻呂”との戦い(38年戦争)があった時期。
阿弖流為は捕らえらはしたが、結局勝敗がつかなかったという泥沼の戦いだ。
ここは、現在の東北道よりはずっと東側になるのだが、意外に古代の東北道だったのかもしれない。
とすると、阿弖流為や、田村麻呂もここに来たことも考えられる。

 エミシの歴史を知る上でもたいへん重要な遺跡だ。
ここの遺跡の特徴は 漆紙文書というものの発見。
昔は紙が貴重で公文書の紙も再利用した。その紙が漆のつぼのふたに利用されたものがあり、
その漆が染み込んだものが たまたま 保存性がよく残った。
戸籍、計帳など、さまざまな内容が書かれたものが発見されているそうだ。

 “地下の正倉院”といわれる、この遺跡であるが、残念ながら
現在は、常磐自動車道の真下にある。開発のために発見されはしたが、
便利な生活をするために このような遺跡の犠牲があることをあらためて知る機会になった。

 ところで、この鹿の子遺跡の近くには、常磐自動車道を交差するための
何本かの生活用道路の橋がかかっていた。その橋に ”羽黒東橋”と羽黒西橋があり、
近くには羽黒西というバス停があるのを発見した。
現在、”石岡市若松2丁目”という地区で “丁目“がついているところからすると
かつてあった地名が数字に整理されたように思える。
常磐自動車道

 ホームページでは”出羽の地名によく似た地名”を集めている。
 
 偶然、ちかくを通ったおばあさんに地名のことをきいたら、この辺に羽黒という地名があったかもしれない・・・昔、羽黒なんとかという祠があったかも・・・というが、お歳のせいか、よく聞き取れなかった(すみません)。
近くの不動産屋さんにも聞いたけれど、若い方で昔の地名はよくわからなかった。

 少し強引ではあるが、自動車道のあるあたり、遺跡のある地区、ここにかつて
羽黒という地名があったと推測する。
 
 鹿の子遺跡(対エミシの前線基地)、羽黒の地名のある場所、わたしには、複雑な思いがする場所であった。
ホームページで、羽黒という地名を集めている。そちらに加筆したい。
         
<写真は常磐自動車道、鹿の子遺跡のあったあたり、羽黒東橋から北の方角を望む。上矢印 道路にかかる橋は”谷向西橋” 奥の緑の道路標識には、”岩間10km、友部JCT15km、いわき市街122km”とある。この辺を通るおりにはこの遺跡のことを思い出したい。>





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最終更新日  2007年10月17日 08時54分14秒
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