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テーマ:本日の1冊(3696)
カテゴリ:古代史 <出羽の国>と<日本>
前回の内容の続き、
”阿弖流為(38年戦争)や伊加古など、古代蝦夷の英雄たちが活躍した東北北部には、 11世紀、東に安倍氏、西には清原氏が出現して強大な勢力をふるった、 12世紀には、血縁的にも権力構造の上でも安倍氏・清原氏とのかかわりが大きい 平泉藤原氏が陸奥・出羽の両国を支配下におさめて、一定程度に朝廷から自立する 傾向をみせるようになる。” 安倍氏、清原氏、藤原氏は大和の豪族と共通の氏名ではあるが、 強く蝦夷の流れを汲む人々であることを説明する。 古代蝦夷の英雄時代 そのような過程で武士は出来上がることになるのだ。 特に源氏の介入がクローズアップされる東北の古代史であるが、 奥州12年合戦(前九年の役)は、主に安倍氏と清原氏が”東北北部を東西に2分し”戦うのである。 その時、勝者の清原武則の軍は、1万、それに合流した源氏(頼義)の軍は、3000であった。 ”全軍を7つの陣(部隊)に分け、それぞれの押領使(指揮官)が定められたが、 本隊の陣以外の押領使(指揮官)はすべて清原氏の人々であった。清原氏と源氏の軍事力の差は歴然としている。”という。 源氏が大きな集団どうしで合戦をする武士として成長したのは、 こういう東北での戦いであった。 日本史では武士団というと源氏と平氏が有名である。しかし、 政治力と軍事力としての形はここ(奥州)に原型があったということはわかりやすい。 源氏の大きな戦さの経験は東北で学んだところが大きいという事実があった。 少し話しが変わるが、 ”胆沢鎮守府は坂上田村麻呂が阿弖流為などとの38年戦争(蝦夷戦争)の後に より北方の地域に朝廷の影響力を行使するために多賀城から移したものである。 当初、鎮守府は 国府(多賀城)の管轄下にあったのだが、次第に同格になり 大きくいって東東北は衣川の関を堺に南北に統治される。” 鎮守府の意味合いの変化がおもしろい。 安倍氏は南の国府の管轄領域まで勢力をひろげて奥州12年合戦がはじまる。 以下、本の内容に沿って蝦夷の血を引く人々の地位の遍歴を見てみる。 安倍貞任 → 鎮守府在庁官人 清原武則 → 鎮守府将軍 藤原清衡 → 陸奥国押領使 藤原秀衡 → 陸奥守 蝦夷は中央の役職を奪い(または得て)、 ”鎮守府の管轄下の地域は、朝廷のコントロールが完全には及ばない世界となった。” ”平泉には、鎌倉に先がけて鎮守府将軍を頂点とする幕府的な機構が出来上がっており、平泉幕府の可能性は皆無ではなかったのである。源頼朝の幕府が征夷大将軍を旗印にしたのは、ひとつには鎮守府将軍を頂点とする平泉に対抗する意図がこめられていたのであろう。文治5年奥州合戦により、源頼朝の政権と平泉藤原氏の政権は統合された。・・・平泉藤原氏は鎌倉より早い時期に、すでに新しい時代の政権の中核勢力となり得る体制を整えていた。ただし実際には、平泉藤原氏が築き上げたものを吸収した鎌倉幕府によって新しい政権が歩みはじめるのである。” それゆえにこの本では ”都市平泉は、鎌倉に先がけて成立した日本最初の武士の都市であった。”とうたっている。 私なりに考えてみた。この後の東国のことをみてはどうだろうか。 征夷大将軍 源頼朝 征夷大将軍 徳川家康 関東では、平将門が新皇と名のり、天皇になろうとして失敗した苦い経験がある。 平清盛が太政大臣、豊臣秀吉が関白となって公家になろうとするが長くもたない。 それは地方に権限をとりもどす方法、天皇の制度を譲りながら(残しながら)、 実権をにぎるという制度。ある意味、形式だけのような政治制度の始まりをつくった、 そう とらえられないだろうか。 蝦夷については、 ”エミシといわれた人々が自分たち自身をエミシと呼んだのではないし、 「エミシ」とされた人々が本来的に、文化的にも政治的にもひとつのまとまりを有していたわけでもない。・・・・・アイヌ民族をのぞき、蝦夷といわれた人たちが 我らこそはエミシであるという気持ちを共通にいだき、一致団結して政府側と相対するということはなかったといえよう。・・・”とある。 古代から蝦夷は多様であった。ただ、なぜか私にはこの蝦夷というくくりが 捨てがたい。魅力的で大切にしたいと思うのである。この本を読んであらためて感じた。 古代蝦夷(えみし)。 右は同著者「古代蝦夷」 ほぼ同じ内容の本、一部詳しく書かれている部分もある。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年05月16日 13時53分49秒
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