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テーマ:本日の1冊(3693)
カテゴリ:古代史 <出羽の国>と<日本>
作者の万葉集への思いが"考古学者"としての視点で書かれたエッセイのような古代史の本だ。
萬葉集に歴史を読む [ 森浩一 ] “考古学の姿勢をもって『萬葉集』に挑んでみようというのである。・・・ぼくは和歌に詠みこまれている土地についての知識を重視している。逆にいうとどのような土地でそれぞれの和歌が生まれたのかを探ろうとするのである。・・・”と、取り上げた歌の解説のみならず、その歌との想い出やエピソードを載せていてとても面白い。 大和(厳密には山跡・山常・八間跡・倭など和歌により表記が違うのだそうだ)以外にも、三河、北九州や関東(上野など)など 他の地域についても多くのページを割いている。 興味を惹かれたのは第7章の“地域学から見た東歌”という章で、伊香保や佐野(上毛野)で歌われた歌を解説している。ちなみに 佐野は上野の国、西毛にある地名の方で、現在佐野ラーメンで有名な栃木県の佐野とは違う群馬県内の地域のことをいう。地図では他にも点在する佐野という地名が見られる。 ざっくりだが間違いをおそれずに書くと、毛野は今のJR両毛線でつながる利根川の上中流域の群馬県南東部からに栃木県南部に広がる地域で、この地域は古くから現在に至るまで県などの行政の枠を超えて経済や文化での強い結びつきがある。古代には毛野国があったとも考えられてもいてその西側の地域が西毛地域のようだ。 毛野の地域は 上とか下とか西とか東とかがあり分かりにくいのだか、(西毛(中毛含む)+東毛)≒上毛野≒上野、(両毛ー上野)≒下毛野≒下野、とみてとれる。(時代によって国の範囲が変わったり線引きがむずかしく詳しくはわかりませんでした。ひょっとしたら、出羽郡が一部の地域から山形、秋田へまたがる広い地域名になるのと同じようなことがあるのかもしれない。現在でも群馬県では北毛、中毛、東毛、西毛で区分けされることが多いそう。) ちょうど今、大河ドラマ(花燃ゆ)の舞台となっている地域でもある。この本の挿絵を見ると安中市、高崎市、藤岡市、伊勢崎市、桐生市(太田市)がでている。 この本では、直接出羽の国は取り挙げられていないが、“上野国の蝦夷の移住”という章があり、そこで出羽の国の人が取り上げられている。(万葉集には出羽の国のものがあったかは不明。) この章の5番目に上野国の蝦夷の移住の話が出てくる。 “・・・緑野(みどの)郡に限ったことではないが、西毛には渡来人が多いし、蝦夷(毛人)集団も各地にいた。・・・『和妙抄』で上野国の西毛の各郡をみると、碓氷郡に俘(浮)囚郷がある。多胡郡にも俘囚郷はあるし緑野郡にも俘囚郷はある。俘囚とは公民化した蝦夷のことで、時にはその軍事力が尊ばれた。 弘仁3年(812)に注目すべき資料がある。「出羽国の田夷置 井出公 砦麻呂(アザマロ)ら15人に上毛野緑野直の姓を賜う」(『日本後紀』)。 この場合の上毛野と緑野は、ともに地名であって、緑野郡へ移住してきた俘囚の記事だったとみられる。出羽の蝦夷はしばしば蝦狄と書いて、陸奥の蝦夷とは区別された。北まわりの日本海交易に従事した者もいたと思われる。・・・” “注目すべき”としているものうれしい。 この時代の西毛地域には、蝦狄や蝦夷や胡人(新羅系渡来人)、尾張などの郷名が数の詳細は不明だが、複数確認されるという。 砦麻呂ら15人は緑野直姓を賜り、その姓がこの土地の名のようだ、“賜う”のだから、なにか功績があった人だったのだろう。捕らえられて移住されたのとは違う感じを受ける。とにかく具体的な移り住んだ人の名前が残っているというのはとても貴重だ。 弘仁3年(812)といえば、陸奥での38年戦争が終わった次の年である。砦麻呂たちも38年戦争を戦ったのだろうか。そのころの記録に残る出羽の国の歴史としては、804年(延暦23年)に、秋田城を停止して秋田郡にするほど蝦夷の反乱が激しくなったとされるものがある。 新天地へ移りすんだ砦麻呂、どんな人だったのだろう、どんな理由で移り住んだのだろう。興味はつきない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023年10月01日 15時55分56秒
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