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出羽の国、エミシの国 ブログ

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2020年11月28日
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幕末、儒学を学び北辰一刀流を習い、文久3年に横浜異人館焼討ちを計画した人、と言えば誰を思いうかべるだろうか。私なら迷うことなく”清河八郎”と答えるのだが、2021年の大河ドラマ「青天を衝け」の主人公で2024年度から新一万円札の顔となる渋沢栄一もその1人だった。
 渋沢は現在にもつながる大企業を含めた多くの企業の礎にたずさわった明治の実業家、経済人としてとても有名で明治になってからの彼の功績が強調されるが、若いころは過激な志士でもあった。攘夷を唱え、実際に横浜異人館焼討ちの計画し倒幕を考えていた。
  • DSC00486A.jpg(←幕末の志士の頃の渋沢栄一の銅像/旧渋沢邸「中の家(なかんち)」)


 幕府末期、徳川譜代の藩の中から倒幕を目指す人が出てくるほど、幕府の求心力はなくなっていた。幕末の情勢は多くの若者を憂えさせ、尊王攘夷、倒幕へと立ち上がらせた。春に一斉に芽吹く草花のように多くの草莽の志士たちが出現したのは偶然ではなかった。渋沢も"ペリー来航(1853年6月)により重大な憂慮すべき時代の雰囲気を受け熾烈な希望で国に尽くそう"(雨夜譚)と考えた。時代の状況が多くの人々をそういう考えにさせたとも言える。
 清河八郎は傑出して時代を先駆けているため、特別な思想で独自の行動を起こしたかのように思いがちになるが、冷静に考えればその基本にあるものは当時あったものの延長、つながるものになるのだろう。全国で起った攘夷、倒幕運動を考えるとき、同時代の活動が参考になる。また、特に東北や関東での志士の動きは西国に比べてあまり知られていないことが多く、幕末の動乱を生き残って見届けた人という意味でも渋沢の資料は貴重だ。
 八郎たち虎尾の会がリードした尊王攘夷、回天倒幕運動について渋沢と八郎の行動を辿ってみると共通点が多いことに気づく。そういう意味で年齢こそ違うが渋沢栄一の人生は当時の八郎の行動や思想を考える上でとても参考になる。渋沢栄一の攘夷計画も八郎が亡くなった後に起こった虎尾の会関係者も関わり全国で起った一連の倒幕運動の1つとしてとらえて考えることもできる。

     
  • 渋沢栄一の幕末の行動を知りたくて深谷市を訪ねた。渋沢の幕末の志士としての行動を見ていきたい。内容は主に雨夜譚とこの本を参考にした。

 渋沢栄一は1840年(天保11年)に武蔵国榛沢郡血洗島村(岡部藩/現埼玉県深谷市)の藍玉の生産と養蚕をする大きな農家の家に生まれた。8歳ごろから10歳年上で従兄弟(いとこ)の尾高惇忠という漢籍(儒学など)を学んだ。師の尾高は"知行合一の水戸学に精通"(深谷市パンフレット)していたとされ、徳川斉昭を崇拝していたともされる。渋沢は尾高淳忠と尾高の弟の長七郎を通じて陽明学と水戸学による尊王攘夷思想に大きな影響を受けた。ちなみに尾高は1830年(天保元年)生まれで八郎と同い年になる。

 渋沢栄一の家は豪農と呼ばれる農家で2町歩ほどの土地持ちだったというが米農家ではなかった。血洗島(深谷市)の周辺は利根川が運んだ砂を含む荒い土壌で水はけがよく水田稲作には不向きの土地だったからだ。深谷市一帯は冬の季節風が強く寒暖差が大きい少し寒い地域で、虫などを寄せ付けない気候のため一般的な作物ではない桑と藍に向いた土地だった。江戸時代、1700年代の後半ごろから裕福な人が増えたことや関東地方での綿産業の発展もあり、この地区の人々の養蚕や藍玉による収入が増えていき莫大な富を得るようになった(渋沢家の藍玉の売上は1万両を超えたという)という。渋沢家は地区の名家で昔よくあった地区の名家どおしの濃い血縁関係で結ばれていて、これから登場する人物たちもも親戚筋にあたる人が多い。

 栄一は卓越した商売のセンスを持っていた。藍の原料の藍玉の商売、生産の才能を発揮させた。17歳で父の代わりに幕府の御用金要請のために陣屋に赴いた際、岡部藩(安倍(あんべ)氏)の代官とのやり取りの理不尽さ、侮辱を感じた出来事(渋沢は代官事件と呼ぶ)から倒幕へと駆り立てられていく。そして、攘夷運動に傾倒していく。

  • DSC00488A.jpg(←旧渋沢邸/渋沢栄一生地「中の家(なかんち)」)
 



 1861年(文久元年)、22歳で父をかき口説いて2か月ほど江戸に文武両道の遊学をする。儒学では海保章之助の塾で儒学を、剣術では八郎と同じ神田お玉が池の千葉周作の道場(玄武館/栄次郎)で北辰一刀流を学んだ。その主な目的は「読書・撃剣(剣術)などを修業する人の中には、自然とよい人物があるものだから、抜群の人々を撰んでついに己の友達にして、ソウシテ何か事ある時に、その用に充(あて)るために今日から用意しておかなければならぬという考えであった」(雨夜譚(ばなし)余聞)というような同志や仲間をつくることだった。

 1863年(文久3年)、再度江戸に出て4か月ほどして、渋沢は仲間内の議論に煽られ(影響を受けて)倒幕計画を立てた。高崎城を乗っ取り兵備を整えてから鎌倉街道をつかって横浜の外国人居留地を襲って焼討ちにするという内容だった。栄一は機密が漏れないようにするため、江戸の仲間ではなく郷里に帰って尾高淳忠と同じ従兄の渋沢喜作に相談した。そして、69名の同志(真田範之助、佐藤継助、竹内練太郎、横川勇太郎、中村三平、親戚郎党など)を集めた(便宜上、渋沢のこの一党を血洗島グループと呼ぶことにする)。決行日は冬至の日の旧暦11月23日となった。
 ちなみに攘夷計画をした時の父親との夜通しでの話合ったという話がとてもおもしろい。渋沢のお父さんは渋沢が述懐するように非凡の人だったことが感じられるやり取りが繰り広げられている。

 いよいよ最終謀議をした10月29日の晩になって、前年に蜂起のための情報を得るために京都に行き3、4日前に戻ってきた尾高長七郎が隆起の中止を言い出したという。栄一に尊王攘夷を焚きつけてきた長七郎でもあるが、大和五条で蜂起した天誅組の失敗を見てきて考えが変わっていた。長七郎の意見は次のような内容だった。

    「つくづく天下の形勢を見るに、今日わずか67十人の農兵を以て事を挙げても一敗地にまみれることは火を賭るよりも明らかである。面(おもて)もそれが幕府を倒壊する端緒となるならば尊い犠牲として瞑すべきであるが、結局は百姓一揆と同様に見なされて、児戯に類した軽挙だと世人の笑いものとなり、吾々に続いて起こる志士も無く、言はば犬死に終る(の)は必然である。もし仮りに高崎の城を抜く事が出来たと仮定しても、横浜まで乗り込んで外人の居留地を襲撃しようとするには十分に訓練した兵でなければ不可能である。諸君の考えている通り、幕府の兵は弱いには違いないが、とにかく人数が多いから横浜に至る前に失敗に帰するは云うまでもあるまい。・・・

     猶また、幸ひにして居留地焼討ちが成功したとしても、野心満々、虎視眈々たる外国人に対して、徒(いたづ)らに口実を与ふるのみであって、これが為めに幕府が倒れるとするも、それと同時に皇土を外人のために汚される結果となるかも知れぬ。外国との戦争の結果は兎に角として、国内の政治に対し外国をして干渉せしめるような端を開いては、国家の大恥辱であるからこの見地からしても断然この度の計画は思い止どまれたい。但し、諸君にして拙者を裏切者と思うなら甘んじて諸君の刃に死するであろう」
    (青淵回顧禄/「渋沢栄一」鹿島茂著)

 それに対して、渋沢は「一旦死を決して旗挙げをしようと盟(ちか)ひ合った以上は、成敗は天に委ねて唯決行の一字あるのみである」と言い譲らず、長七郎が栄一を刺し殺しても計画を中止させるといえば、栄一も長七郎を刺しても決行すると言い返し、あやうく刃物沙汰になるところだったが尾高惇忠が間に入って止めた。そして日を改めて議論の続きをおこなうことにした。

 その夜、渋沢は一睡もせずに長七郎の議論を反芻して熟考を重ねたがどれ1つ取っても長七郎の言い分の方が正しいように思え、翌朝、皆を集めその席で自らの非を認め、長七郎の説に従って隆起を一旦中止し、翌日、天下の形勢をうかがって初志貫徹することを提案した。すでに尾高惇忠も渋沢喜作も中止に傾いていたので異論はなかった。69人の同志たちには手当てを与え解散を伝えた。そして、渋沢は幕府の探索の手から逃れるために郷里を出奔して水戸を経て江戸に向かった。近隣、親戚には伊勢参りと京都見物ということにしていた。

 八郎の死が文久3年4月13日で、渋沢が攘夷計画を計画したのが同じ年の11月23日。八郎の計画の後、7か月後に同じ横浜の外国人居留地を襲って焼討ちをするという計画を企てている。渋沢たちの兵器は"旧式のまるで昔の野武士の扮装(いでたち)だったろう(雨夜譚余聞)"という。家のお金200両を使い込んで、150~60両で刀や(竹)槍、着込み(剣術の稽古着のようなもの)、提灯などを用意した。鉄砲、最新のライフル銃のようなものはなかった。当時の志士レベルの攘夷、倒幕運動では装備が十分ではなく脆弱なものがあったことを教えてくれる。攘夷や倒幕は成り行きなどではなく倒幕後の構想も含めよほどしっかりしている人たちが連係していなければむずかしいことだっただろう。

 「今にして思えば実に無謀至極の暴挙であったが、もし当時長七郎の諌止がなかったならば恐らく私はその際に犬死をして無謀の誹りを後世に残したろう思う。」(青淵回顧禄/「渋沢栄一」鹿島茂著)「じつに長七郎が自分ら大勢の命を救ってくれたといってよい」(雨夜譚余聞)と後述している。
 ちなみにこの後の言動からすると渋沢の気持ちの上での倒幕はあくまで"一旦中止"であって断念したわけではなかった。おそらく頭を切り替えて、当時、多くの志士たちが集まっていた京都へ活動の場を求めたのだろう。まもなくして京都に行くことになる。こうして、本人も述懐するようにこの時攘夷は中止となり渋沢は命拾いをした。
  • DSC00511A.jpg(←最終謀議は尾高惇忠の家の2階で行われた。)





<参考>、"可堂(桃井)先生事蹟"(渋沢栄一伝記資料刊行会)
(桃井可堂は八郎と那珂通高とともに一堂門の三傑と言われ、ともに親友とされる)
 横浜異人館焼討ちについてまとめて並べられた記述があるので参考として掲載したい。
 ちなみに桃井可堂自身(天朝組)も渋沢栄一たち(慷慨組)と呼応しながら同年12月に挙兵と攘夷を企てたが裏切りのために失敗して亡くなっている。
     「元来横浜焼討なるものは、是より先志士の計画したること一再に止まらず。
    (①)万延元(1860)年の冬水戸浪人之を計画して成らず、
    (②)文久元(1861)年八月二十一日には、浮浪の徒海上より横浜を襲ふの説あり、幕府令して警備を厳にしたることあり。
    (③)文久二(1862)年八月二十八日には、長門の来原良蔵外国人を斬らむとして横浜に往き、同藩吏の捕ふる所となり、
    (④)十一月十二日には、長門土佐の藩士神奈川に集りて、横浜を焼かむとし、亦果さず。
    (⑤)殊に先生の親友たる清河八郎の如きも、文久二(1862)年六月京都より江戸に帰るや、実に横浜焼討を策し、幕府を紛擾せしめて事を挙げむと欲し、終に文久三年四月十三日、先生の帰還後二旬ならざるに暗殺せらる。
     然り而して謂ふ所の横浜焼討が然かく屡(しば/たびたび)計画せられて、竟に(きょう/結局)成らざりしもの、実に先生等の大に鑑みる所也。」

     清河八郎はここにある⑤の"浪士組事件"とそれより以前に"虎尾の会事件(1861年)"と2度計画をしている。渋沢たちを含め多くの人々が横浜異人館焼討ちを計画していた。解りやすいようにこの文の中の攘夷の回数を( )で補足した。



 深谷市のもう1つの名物、ほうとう。この地区の人々は元は武田氏の家臣たちで武田氏滅亡後、現在の山梨県から移住したので、山梨と似た郷土料理が伝わっていると考えられているそうだ。





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最終更新日  2021年04月24日 21時32分01秒
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