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テーマ:本日のTV番組(41)
カテゴリ:幕末の歴史 清河八郎と庄内藩
NHK大河ドラマ「どうする家康」で徳川家康(役:松本順)を支える家来衆の1人として、酒井忠次公(役:大森南朋、以下敬称略)が活躍している。これまで、徳川家康のドラマは数多くあったが酒井忠次がこれほど多く出てくるドラマはあまり記憶にない。
酒井忠次は、徳川幕府の成立に大きな功績があった人で、家康より16歳年上で家康の苦難の時代を支えた人として徳川四天王の1人といわれる。しかし、豊臣秀吉(1598年)が亡くなる2年前、関ケ原の戦いより3年前の1596年、家康が天下をとったことを知らずに亡くなった。天下を取った時に存命していなかったのに四天王に数えられるのだから、徳川家によほど功績があった人ということになるのだろう。 これまであまり取り上げられることが少なかったのは関ケ原の合戦に参加していなかった事が関係しているのかもしれない。最近はYou tubeなどのおかげで酒井忠次を解説する動画が増え、今まで知らなかった忠次のことを知ることが出来とてもありがたい。そして、そうしてわかったことにはこの酒井忠次は親族として家康を支え徳川家臣団の中心にいたためにとてもユニークな性格をもっていたということだ。それは庄内地域の文化や思想に小さくない影響を与えているように見え、おそらく清河八郎にも影響を与えていたように思える。清河八郎の思想や行動を酒井忠次の影響から考察してみたい。清河八郎に対して不思議に思う行動があったと考えることがあるならその誤解を解くヒントになるかもしれない。 家康の家来の中の年長者として、また先祖を同じくし伯母の嫁ぎ先として徳川家を盛り立てた忠次。家臣にも関わらず諫言を呈する一方、ユーモアもあった。家臣にも関わらず、長篠の戦いで信長にも認められ陣羽織をもらい、後に天下をとる2人の直接の対決となった小牧長久手の戦いでは秀吉にも認められた、という。徳川家の参謀という感じだけではなく一武将のようでもある。 家康が残した名言の1つに次のような言葉がある 「およそ(多くの場合)主君を諌(いさ)める者の志、戦いで先駆けするよりも大いに勝る」 家康の多くの意見を聞こうとする姿勢だけでなく天下人としての器の大きさを示す言葉だ。家康は家臣団をまとめるにあたり、このような家臣たちの屈託のない意見を大事にしたようだ。これは家康が天下を取れた理由の1つにもなるだろうし、この「主君を諌める者」の中には当然、酒井忠次も入っていただろう。徳川家臣団の中にあり、酒井忠次も自分の家来に対しても自分を諫(いさ)める人を大事にしたと想像できる。戦況が日々変わる下克上の戦国時代、単純に上からの指示(待ち)だけで天下を取ることなど不可能でそれぞれの意見や行動を尊重した結果なのだろう。 また、金言ともいえるこの言葉は三河武士の特徴、三河武士団の主君や家臣たちの主従関係を表していたようで三河武士の勇敢で結束を強くさせた理由の1つだった。江戸幕府が厳しい統治をした時期にも三河武士、関係諸藩では大切にされていたと思うが各々が三河地方から関東や三河以外に移り太平の時代を経てその精神は少しづつ忘れさられ、お互いの関係、雰囲気も少しづつ変化していったのかも知れない。 ある番組で酒井忠次の子孫の方(現在の当主)が酒井藩(出羽庄内藩)について次のように家康の名言に関連する内容のことを語っている。 「言いたいことが言える藩だった。どんなに強い相手でも自分の意見をきっちり言わなければならない。自分の言いたいことは言わないと武士道に背く者として誹り(そしり)を受けた。」 個人的な解釈を含めて補足すれば「言わなければならないことをためらうな、それが相手や全体のためになるのだから」という意味を含んでいる言葉としていろいろな機会に教えられたと思う。中には少し勘違いして言わなくてよいことを遠慮なく言ってしまう弊害も出てくることがないわけではないが それ以上の利があると考えてのことなのだろう。自由で闊達な意見や多くの情報をより大事するという意味の言葉だ。そういう意味では不文律の家訓ともいえる。これは家康たちが作った組織論にも似たようなものを感じられ庄内藩の武士道として扱われていたと言っていいだろう。 「本間様にはおよびもせぬが、せめてなりたや殿さまに」とという俗謡がある。 それほど商家としての本間様はすごいという意味だ。しかし、少しうがってみれば逆に殿様を軽んじている歌にもとれなくもない。身分制度が厳しく貧富の差も大きかった時代、不敬罪のような形で取り締まることもできただろう。地元の人々は屈託なく冗談として捉えているが、他の地域の殿様たちから見れば、庄内藩はよくこのような俗謡を野放しにしたのかとも思われるかもしれない。酒井家は先ほどの家訓を守るべく家来、民衆が委縮ぜず、言いたいことを言える雰囲気、その延長線上の商業、経済活動を大事にしたともいえるだろう。(また、本間家は小作人に対して丁重な姿勢だった。) 日本の文化には目立つことや出しゃばることを嫌い、自分の意見を言わないで我慢する美徳文化がある。言いたいことを言わないこと、言い控えることで相手の気持ちに配慮する協調性を重んじる良い文化になった。しかし、逆に捉えれば言いたいことを言わずに従うことが多くなったり、横並びの出る杭を打つような文化にもなる。良い面もあったと思うが幕府の5人組制度などの身分制度で言われるお互いを監視したりする意識や村の長が中心の村社会的で閉鎖的な側面はその象徴で、変化に順応できない文化の温床にもなる。長い安定した江戸時代を通して身分制度の強い束縛は徐々に文化や人々の考え方にも影響を与えただろう。 「国際会議を成功させる秘訣はインド人を黙らせて日本人をしゃべらせること。」というジョークがある。それほど日本人は人前で自分の意見や考えをいうことが苦手だ。慣れていないからなのだと思うが、教育、訓練の場が少ないので自分の意見をいう場を与えられることも少ない。少なくとも世界の中では自分の意見をいうことが不得意な国民と思われている。ステレオタイプ的に考えれば、日本人でもおばさんは自分の意見をはっきり言うイメージが強いが世界的にはそのように考えれているようなのだ。確かに人前で発言するときには、それが何かは人により違いはあるが目に見えない何かためらいを生じさせるものを感じる人は少なくないのではないだろうか。 自分の経験で恐縮だが、ある会合で外国の人が説明をしに来日して、最後に質問を求めたときに何も質問が出ないことに説明者がびっくりする光景を見た経験がある。そして、日本ではいつもこういう感じなんだ、と説明されて説明者が納得したということがあった。特に大勢の中で質問をしたり自分の意見をいうことは日本では極端に少ないようなのだ。 ところでこの地方で自分たちのことを「庄内健児」と呼ぶ。これがどのような人を指すのかはっきりした定義はないが、それには地元の自然などの環境で育ったという要素だけではなくこの「どんなに強い相手でも自分の意見をきっちり言わなければならない」という文化的要素とそれを受け入れる要素が入っているのかもしれない。出所の証拠はないがそれは冒頭の酒井忠次公が作った教え、文化なのかもしれない。自分が言ったことに責任を持たなけれならないのでしっかりとした考えをもつこと(沈潜の風というのもあるそう)になるが出しゃばっているという印象で損をすることも少なくない。損得で考えれば日本社会では一般的に損をすることの方が多い。八郎だけではなく、西郷隆盛の対島津久光への対応など歴史的に有名な人のエピソードにはこのような損をする例がみられ、命がけの行動もある。 (← 庄内平野で) 八郎は、同志を見つけ虎尾の会を作り、全国を遊説して回り自分の意見を多くの人々に説明して回った。そして、帝国主義に立ち向かうため硬直した社会を改めて新しい制度を作ろうとその魁となった。今までにない新しいものを作るときには、多くの人と交わりその中からよりよく現実的なものを取捨選択しながら多くの人の賛同を受けなければならない。その八郎の行動の原動力には、徳川家康や酒井忠次が大事にしてきた家訓、武士道としての「主君を諌(いさ)める者の志」の考えがあったように思う。八郎の「虎尾の会」の通称もそのものが幕府に対する「主君を諌(いさ)める者の志」の呼称のように思える。 地元出身の作家で「回天の門」を書き尊敬する藤沢周平は八郎の行動を下のように「ど不敵」という土地の言葉で紹介したことがあった。 「自我をおし立て、貫き通すためには、何者もおそれない性格のことである。その性格は、どのような権威も、平然と黙殺して、自分の主張を曲げないことでは、一種の勇気とみなされるものである。しかし半面自己を恃(たの)む気持が強すぎて、周囲の思惑をかえりみない点で、人には傲慢(ごうまん)と受けとられがちな欠点を持つ」 「権力を相手どって放胆な奇策をうちたてることを快として性格は、八郎に固有のものというよりも、田舎者の劣等感と自負心がよりあわされた奇策癖だとも・・・」と、八郎の行動を地域文化を含めて表したようだ。 (【回天の門】庄内ならではの人物/ 山形新聞・藤沢文学の魅力(2007年5月10日 山形新聞掲載)) 長らくこの文が頭の中にありどうとらえていいのか整理がつかなかった。もしかしたらこの勇気は健児の「主君を諌める者」の文化とつなげて考えられるのではないか、八郎の行動で理解できないように感じるものがあったならこれにより理解が進むかもしれない。 敢えてこの文を「主君を諌(いさ)める者の志」の気持ちで見ていきたい。 確かに勇敢に自分の意見を言う形のこの「ど不敵」の勇気は庄内では好まれ、奇策も好まれる傾向はあるように思う。だからといって庄内健児は向こう見ずな「ど不敵」かというとそうでもないように思うし、「ど不適」の内容は水戸学に通じるようにも思われ、他からの影響を受けたうちの一部を誇張されているようにも思える。由来や本質が結びつくようにも思えないのだ。(水戸学についてはこちら➪「幕末の志士、渋沢栄一(4)攘夷(尊王)の思想と水戸学」) 奇策癖といういうのも少し言い過ぎなように感じる。八郎への幕府の「隠密無礼撃ち事件」や岩倉や西郷の「薩摩御用盗」、戊辰戦争での官軍の「錦の御旗」などなど、考えたら歴史では奇策が多く駆使されてきたし、八郎自身もその被害者だ。歴史には純粋な正道だけではないことも少なからずあるようにも思える。一般の人が見て奇策と思えることを偉人たちでも行っているとすれば妙計(妙策)と奇策の区別は結果によるだけことだけなのかも知れない。 劣等感については、八郎は家庭環境や経歴を見ても当時の人々が憧れる秀才で逆に少なかったように思える事柄が多い。虎尾の会や薩摩藩士など八郎は多くの人に尊敬されていて孤立などはしていなく、少数派としての劣等感も少なかったようにも思える。幕末の腐敗した幕府をなくして徳川家も含めた天皇中心の政治にして日本を救うために強い信念、責任感をもった。日本の将来を憂いて自分を犠牲にして行動したことは幕末の志士たちの心を大きく動かし賛同者を増やしている。よく長所としてあげられる雪の不便さや冬の寒さを耐えるような忍耐強さや信念の強さは逆に頑固さなどとらえられれば短所となるので、いいところと良くないところは表裏一体でもあるように思う。もしかしたら、藤沢は八郎が感じた優越感、達成感をわざと劣等感の裏返しのように表現したかったのかもしれない。 家康や酒井忠次の精神や家訓が清河八郎に影響を与えていたのではないかと考えてきた。「主君を諌(いさ)める者の志」、現代では地位の高い人、政治家、目上の人や会社なら上司などへの諫言する心のことにもなるが実際には多くの場合、自分の意見を言うことで逆に蔑(ないがし)ろにされ嫌な思いをしたり、失敗など損をすることの方が多いのではないだろうか。現実と照らし合わせてそうであればあるほど、家康や酒井忠次の精神、家訓が尊いものに感じる。 昨年が酒井氏が庄内に入部して「400年の節目」だったのだそうだ。忠次は山形庄内には来たことはなかっただろうが、その思想はこの地方の文化の1つとなっているようだ。大河ドラマ「どうする家康」で大活躍する酒井忠次だが、ドラマの中で同じく三河武士として活躍する大久保忠世(役:小手信也)の個性あるセリフ、働きも気になって見ている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023年08月30日 19時03分06秒
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