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カテゴリ:幕末の歴史 清河八郎と庄内藩
横浜の外国人居留地焼討ちを計画して、暗殺されてしまった八郎と生き残った渋沢。共通点も多く攘夷に対する情熱が高かった2人だがその後の人生は大きく違うことになった。
八郎の幕末の活動は回天(革命)の門を開いたと例えられ、全国の組織だった(尊皇)攘夷倒幕運動の魁けとなった。八郎の暗殺は文久3年4月13日、横浜の焼討ち攘夷実行の予定日4月15日の2日前だった。 渋沢が攘夷を実行計画したのが八郎たちの浪士組事件の7か月後、11月23日。八郎たちの失敗にもかかわらず、同じ横浜の外国人居留地を焼討ちする計画を立てた。八郎より10歳若い渋沢は計画も比較的未熟で準備も不十分だった。そして攘夷実行が無謀なことを悟り断念した。 生き残った理由を自身、次のように語っている。 「実にこの人(長七郎)が涙を揮つて(ふるって攘夷挙兵を)止めなければ、自分は文久三年に於(おい)て既に一片の白骨と化し去つたのである。(竜門雑誌)」。長七郎の英断、引き留めが栄一たちの命を救った。 後に薩摩藩や長州藩も攘夷戦争をして犠牲を払った後に、攘夷は無謀と気づくことになった。国全体での攘夷の魁競争により、多くの人々の命が失われた。八郎は倒幕も目指していたが、ある意味、攘夷運動の最中で命を落としたことになる。数多く失われたこれらの命にはそれぞれもっと別の人生があったはずだ。この2人を含め時代を強烈に突き動かした攘夷思想とはどのような性格のものだったのか。 「攘夷」の思想を注意してよくよく掘り下げて見ていくと攘夷の意味には2つの性格があるように思う。(尊王の内容は切り分けて考えたい。) 元清河八郎記念館長の成沢先生は「清河八郎」の中で攘夷を次のように説明する。 "「攘夷」といえば、いかにも狭量で世界の大勢を知らない頑迷固陋(がんめいころう/あたまがかたくかたくななさま)の排外思想というかもしれないが、それは当時の世界情勢や国情をよく理解しない皮相(物事の表面)の見解である。攘夷とは独立を意味するものである。すなわち列強の威圧的要求を拒否する強硬外交である。その時日本が欧米の威圧におそれ易々諾々として彼らに従っていたら、日本もインドや中国のような運命となって・・・ペルリをもって開国の恩人と思っている人も居るが、彼が幕府の役人に言ったことは、若し要求に従わなければ武力にうったえる、すなわち戦争することである。そうなれば日本の敗けることは当然であるから、その時はこの白い旗を立てろ。その時砲撃を止めるといって降参のために使う白旗2枚を与えている。" 攘夷には独立の意思と排外思想の2つの意味、つまり「独立性」と「排他性」という側面があるようだ。この2つの考えはともに国を守るという意味では共通する。独立という意味の側面では第2次大戦で敗戦するまで植民地化せずに独立を保つことができた。そして、他者を排除するという意味の側面では、結局は現在でも断念せざるを得ないまま現在に至っていると言える。 日本での尊王攘夷の思想は水戸学と関係が深い。水戸学と幕末の志士たちに対するその影響の様子をいろいろな作者の書物から探ってみた。 「幕末における倒幕運動が尊王攘夷という形を取ったことについては、諸説が入り乱れて、いまだに結論を見ないが、確実に言えるのは、水戸が尊王攘夷思想の発祥地のひとつだったということである。我らが渋沢栄一が倒幕運動に走ったのも、この水戸学の系譜に連なる従兄の尾高惇忠とその弟長七郎の導きによるものだった。」(「渋沢栄一」/鹿島茂) 「水戸学といっても、体系的な学説ということでもないが、これを要約すると水戸藩第2代の藩主徳川光圀に端を発して、代々受け継がれてきた絶対尊皇を中核として発達した学風である。・・・水戸学も時に消長はあった、・・・・第9代斉昭の背後に、藤田幽谷、会沢正志斎、藤田東湖の俊才がいた。斉昭はこうした人物を背景にして「弘道館」を創建して勤王思想の高揚につとめた。会沢正志斎(1783-1863)は藤田幽谷門下第一の秀才で、その著「新論」は日本国体の尊厳を説いて国民的自覚を高め、この尊厳なる日本を異国の侵略から守るために国防を説いた名著で、当時の勤王の志士たちに聖典のように愛読された。・・・吉田松陰は親しく水戸に会沢正志斎を訪ねて教えを受けているし、九州久留米の勤王家真木保臣も亦はるばる水戸に来て正志斎の門をたたいている。水戸は勤王思想の総本山であった。水戸学と共に、明治維新の精神的原動力になったものに国学がある。・・・」(清河八郎/成沢米三) 「では肝腎の水戸学とはなんであるかというと、じつは、これが、学と呼べるような体系性も論理的整合性もそなえていない、ある種の過激な気質の純粋結晶のようなものにすぎないのだ。すなわち、その根源にあるのは、「武士は食わねど高楊枝」というあの武士の痩せ我慢の思想をひたすら鈍化して、本来マイナスの価値しかない「貧乏」に倫理的なプラスの価値を与え、劣等感を優越感に変えて、自分よりも少しでも恵まれた他者を攻撃するという一種の奇矯な「清貧の思想」である。しかもそれは、強いられた貧乏、藩主の見栄っ張りから生まれた貧困を原因としているから悲惨である。」(「覚書 幕末の水戸藩」/山川菊栄)(※山川菊栄は水戸藩にゆかりがある人物) 「水戸学が一見「過激」に見えるのは、学派とからみ合った派閥の新左翼ばり内ゲバ闘争の過激さとそれに連関した過激な発言から来るのであって、思想そのものがラディカルだとういうわけではない」(「近代の創造」/山本七平) 「水戸学の本質は、倫理的な痩せ我慢競争を自他に強いて、自分より少しでも禁欲度の劣る人間がいた場合、これに非難を集中することで、逆に自らの意志の強さを確認することにあった。「尊王攘夷」とりわけ「尊王」は、この倫理的痩せ我慢競争の口実にすぎなかった。」 「しかしながら、本来的には反体制的なものではなかった水戸学の尊王攘夷も、幕府が開国の方針へと傾くと、敵(外国人)を排除しない人間(幕府)は敵だと自動的に判断するジャコバン的厳格主義により、討幕攘夷へと変質していく。」(「渋沢栄一」/鹿島茂) 何か滑稽な感じもしてくるがまじめにこれは現実で、水戸学的なものは現代の日本社会にも染み付いている。特にスポーツの精神論、先輩後輩の人間関係、日本的風土に根づく村社会的思考、江戸時代の5人組制度にも似た文化的な側面として現代にも残っているから笑えないところがある。尊王攘夷の思想は意外にも天皇のお膝元の関西中心ではなく、北関東の水戸が中心であった。 尊王攘夷運動で鹿島茂氏のいう「過激さ競争の罠」にはまって生き残った渋沢は若いころのことを自虐的に次のように回想している。 「余は17歳の時武士になりたいとの志を立てた、・・・しかしてその目的も武士になってみたいという位の単純なものではなかった。武士となると同時に、当時の政体をどうにか動かすことはできないものであろうか、今日の言葉を借りて云えば、政治家として国政に参与してみたいという大望を抱いたのであったが、そもそもこれが郷里を離れて四方を流浪するという間違いをしでかした原因であった。かくして後年大蔵省に出仕するまでの十数年間というものは、余が今日の位置からみれば、ほとんど無意味に空費したようなものであったから、今この事を追憶するだになお痛恨に堪えぬ次第である。自白すれば、・・・最後に実業界に身を立てようと志したのがようやく明治45年の頃(72歳)のことで、今日より追想すればこの時が余にとって真の立志であったと思う。・・・惜しいかな、青年時代の客気(かっき/物事にはやる一時的な勇気)に誤まられて、肝心の修行期を 全く方角違いの仕事に徒費してしまった、これにつけてもまさに志を立てんとする青年は、よろしく前車(自分)の覆轍をもって後車の戒めとするがよい。」 断念したものの自分の命をかけ並々ならぬ情熱を傾けた攘夷の計画、この尊王の志士の時代の情熱を「客気に誤まられた」と後悔を含めて例えた。命がなかったかもしれないことで普通に冷静に考えれば当然のことなのだ。さらに、渋沢は横浜異人館焼討ちをしようとしていた当時の精神状態を次のように語っている。 「もとより暴挙などというものは、過激な事柄であるが、つまりことが成就せずに失敗したところで死ぬまでのことである。そのころは死ぬを1つの楽しみとして、芝居でも見るのと似たもののように考えていた・・・」 とても恐ろしく感じる内容で、時代、国の危機的な状況を感じ取った、集団心理、ヒステリー、感覚の麻痺した一種の錯乱状態のようだ。教育や国のリーダーシップは本当に重要だ。それは戦前、あるいは太平洋戦争時の神風特攻隊などの精神にも通じるところがある。これらは国学の尊皇の思想と相まって水戸学の1つの負の着地点となってしまったようだ。 攘夷に話を戻したい。攘夷を"押し売り"ならぬ"押し買い"の状況に例えられないだろうか。 もし、平和に自給自足をしていた村に、ある日、拳銃を持った物買いが来て突付けながら水や食料を売ってくれ、お金は払うから、というものが来たら。なぜ、拳銃を持っているのかと聞けば東洋人は野蛮だから、と相手側の気持ちを酌まない一方的な自分の価値観を押し付ける厄介なことを言う。このような人に対してどのように対処するだろうか。 さらにこれが土地を借りるなど要素を持っていれば段々と互いの過激な応酬へと変化するは必至だ。平和な時代であれば、当然、断るという権利を主張できるだろう。しかし、戦争になればそんなルールは通用しなくなる。このような強硬な姿勢で相手に行動を促す行為、押し買いの排除が攘夷運動のようにも思う。 グローバリズム(国際主義)とナショナリズム(国内重視/民主主義/国民主権)という相反するもの、正の側面と負の側面に対するバランス、実は幕末ほど極端ではないにしても、移民問題など現代にも似たような問題はある。それはバランス、強弱の問題のようでもある。攘夷は必要だったとしてどのくらいの程度が妥当だったのか。70、80年代に未開のアマゾンであった少数民族の悲劇の話にもつながる経済のグローバル化問題は大小はあっても戦争の要素を含み永遠のテーマのようだ。日本が苦手とする話合い、交渉の策略が重要だった。独立性と排他性の各々の妥協点はどこにあったのだろう。 八郎や渋沢たちは水戸学に感化されて時代を突き進んだ、その一方ではこのテーマと戦っていたようにも思える。 (くり返しになるがこのような場合に追い詰められたら「36計逃げるに如かず」だったろう。) ******** お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年12月01日 22時09分52秒
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