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テーマ:本日のTV番組(41)
カテゴリ:幕末の歴史 清河八郎と庄内藩
「青天を衝け」の後半、三野村利左衛門という人が出てくる。25話「篤太夫、帰国する」から33話「論語と算盤(そろばん)」まで、イッセー尾形が演じている。幕末から明治にかけての戦争、多くの西洋化受け入れや近代化(グローバル化)などにより、社会制度、経済、社会の価値観、宗教観などが大きく変わった。その中の経済の混乱を沈め渋沢らとともに民間の立場で近代化を成功させた人として三野村利左衛門の活躍があった。八郎との接点を探った。また、武田真治演じる小栗忠順も三野村、清河八郎との関係があるので同時に探った。
三野村利左衛門は1821(文政4)年に庄内藩士関口松三郎の三男、利八として生まれた。 父の松三郎は関口正右衛門為久の三男で関口家は代々、近習(主君のそば近くに仕える役)から使番席(伝令・巡視の役目)、奏者(殿中の礼式をつかさどる役目)をつとめる家柄だった。父の松三郎は家中の木村利右衛門なるものの養子となったが、朋友の憎しみを買い出奔して浪人した。利八は母親がどうなったかも知らず物心つくころには父に連れられて西国を放浪していた。父は九州、宮崎でなくなった、という。 19歳で江戸に来て神田三河町に紀伊国屋という商家の娘"なか"と結婚して婿養子に入った。紀伊国屋での油売り、金平糖売りから、両替商で成功して財産を築き、その後、三井家の改革を期待され前例のない大番頭(三井御用所の責任者)として迎えられた。交渉が上手な人のようでいろいろな人と会い旧幕府の小栗上野介、新政府の西郷隆盛、大隈重信、井上薫、渋沢栄一など、多くの歴史上の人物と交流した。 昔のローカルの狭い範囲、庄内地位内で言われた、政治の鶴岡、商業の酒田というステレオタイプになるがこの人はその例外のようだ。生い立ちの事件で教育の機会を奪われたのだろう、文字が読めなかったというからそのハンデと苦労はそうとうなものだったろうと思う。しかし、それをものともしなかった。文字で表現できないから、○(まる)を多用して表現した。渋沢栄一によれば、「三野村のまるまる」と言われ有名だったそうだから、この○○には多くの言葉、文字が入ったのだろう。ボディランゲージ(BODY LANGUAGE)という言葉があるが、もしかしたら人間のコミニュケーションは伝えようとする意志や情熱の方が大事なのかもしれない。 渋沢などとともに日本初の銀行、第一国立銀行を設立発起人として立ち上げ(資金は三井と小野組との共同出資)、その後三井銀行を日本最初の民間(私立)銀行として立ち上げた。赤字だった三井を復興させて銀行や商事(三井物産)などを創設した。幕末期の普請金などの多額の支出による三井家の破綻を回避させ三井呉服店を銀行や商社と切り離したり、三井家(同苗/一族)と三井組(店、グループ会社/員)の関係の改革など多くの改革も行い三井財閥の中興の祖と言われた。 江戸で婿入りしてから利八(利左エ門)は神田三河町に住んでいた。神田三河町は庄内藩江戸屋敷と外堀(神田橋)を挟んで対岸にある。八郎が清川塾(1回目)を開いた場所は同じ三河町の2丁目新道だったので近い。2人とも庄内藩の人脈を頼っていたのかもしれない。 利八はある時期、駿河台にある旗本の小栗(又一)家に中間(武士の家での雑事を行う)として雇われていた。この小栗家の子息に小栗忠順(ただまさ)がいた。小栗忠順とは小栗上野之介のことで90年代TBSテレビの徳川埋蔵金を掘り当てる企画の番組で埋蔵金を埋めた人物と想定されていた。事実、幕末期に幕府の財政を握っており、幕府の勘定奉行として強い影響力をもっていた。利八はその忠順が若い頃から親密な間柄だった。 この小栗家の屋敷の一角には安積艮齋という儒学者が見山楼という私塾を開いていた。安積艮齋は幕府の昌平黌(昌平坂学問所)の教授に請われるほどの人で外国事情にも詳しかった。忠順自身もそこで学んでいたし、吉田松陰、高杉晋作、岩崎弥太郎など後の倒幕の志士も含めて多くの有名な人々が学んでいた。八郎も昌平黌に入学する前に学んでいる。 利八と八郎の年の差は9歳、利八と八郎(正明)、2人の江戸での生活範囲はとても近かったが、どのくらい会話をしていたかはわからない。しかし、おそらく2人は会っていただろうし、八郎は実家が酒屋で商人でもあったので経済に興味もあったことだろう。八郎の母は鶴岡三井家の出で鶴岡三井家と三井越後家は先祖での関係(因む)があるようなので二人とも三井家との縁という共通点があるようにも思える。 忠順は八郎の3歳年上になる。八郎は忠順とも安積塾や昌平黌などで会っていた可能性は高い。特に忠順の渡米しての情報は日本にとってもとても貴重だった。ヒュースケン殺害事件の時には忠順は外国奉行で真っ先に現場に駆け付け検死を行いハリスに犯人逮捕を確約した、ともいう。 佐幕派と尊皇派で活動する2人が違う立場で歴史に関わっていた。また、この2人の性格はともに勝気だったようなのでの相性はあまりあわなかったかもしれない。 八郎の暗殺を指示したのが忠順だったという説がある(他には板倉勝静の説がある)。八郎が江戸で亡くなる直前の浪士組事件で浪士組が江戸に駐在したとき、忠順は神戸六郎、岡田周造など浪士組を装った"偽浪士"を使い市中攪乱作戦を行った。市中で攘夷への期待を受ける浪士組のイメージを悪くさせ妨害をするために、偽浪士たちは浪士組の名を語り豪商から略奪したり乱暴行為を行った。これは忠順がのちの官軍(反幕府側)から恨みを買う要因の1つにもなったとも言われる。。八郎が捕まえられた偽浪士を取調べると小栗の命令で行ったことを白状したという。(もしかしたら、西郷の薩摩御用盗(江戸騒擾作戦)はこの時の忠順をまねたのかもしれない。) この本には短いが八郎のことが載っている。「未遂に終わり、忠順は知らなかったが、清河八郎の仲間たちが、小栗邸に斬りこむ計画を練ったこともあった。」というのはこの時のことではないだろうか。八郎が暗殺された前年に忠順が豊後守から上野介に名を改めたのも何か不思議なものを感じる。 また、この本では利左衛門が管理していた御用所には幕府の公金25万両が残っていて利左衛門は忠順へそれでアメリカに亡命するように勧めたとされるが、「逃げる理由がない」ということで忠順はその勧めに応じなかった。忠順もこの時に逃げて生きていれば後に幕府の要人として担ぎ出され歴史は変わっていたのかもしれない。 利八(利左衛門)は、幕臣で佐幕の立場の忠順と革命家の八郎、同じ塾の先輩と後輩ともなる2人の秀才の間にあり何を思ったことだろう。利八(利左衛門)が新政府側についたのも八郎からの情報が影響したことも考えられる。庄内藩江戸屋敷の近くの三河町に住んでいたり(八郎も最初の清河塾は三河町に建てている)、亡くなる直前に病状の診察を佐藤泰然の子の松本順にみてもらっていたりと、庄内縁者の人たちがちらほら見える。この時代に生きた人々の意外に近い人間関係、生活範囲が知れて興味深い。 【年表(三野村利左エ門、八郎、小栗)】 1821(文政4)年: 利左エ門(利八)、鶴岡に生まれる。 1827(文政10)年: 鶴岡を離れる(7歳)。その後、西国を放浪。 1834(天保5)年: 利左エ門(利八)、京都にでる(14歳)。 1834(天保5)年: (忠順、安積艮齋の塾に入門(8歳)) 1838(天保10)年: 江戸に出る(19歳)。深川の干しいわし問屋丸屋へ住み込みで奉公。その後、小栗家に中間として雇われる。 1845(弘化2)年: 神田三河町の紀伊国屋、利八の娘なかの婿養子になる。 1847(弘化4)年: (八郎(正明)、家出して江戸へ) 1852(嘉永5)年: 両替商開業(両替商の株を買う) 1853(嘉永5)年2月: (八郎(正明)、安積艮齋塾入門(見山楼/小栗家屋敷内)で学ぶ、北辰一刀流目録取得) 1854(安政元)年3月: (八郎(正明)、昌平黌入学) 1855(安政2)年: (八郎(正明)、清川塾(三河町2丁目新道)を開く) 1856(安政3)年: (八郎(正明)、清川塾再建(駿河台淡路坂/ 2度目)) 1858(安政5)年: (八郎(正明)、清川塾再再建(神田お玉ケ池/ 3度目)) 1859(安政6)年6月: (横浜(開港)、函館、長崎で自由貿易開始、その後物価高騰) 1860(安政7)年2月: (八郎(正明)、虎尾の会(尊王攘夷党)の結成) 1860(安政7)年: 外国と日本の金の相場の違いを予測、保字金(天保小判/一分金)に投資して利益を得る。 1860(安政7)年1月18日: (小栗、遣米使節団(77人、小栗忠順は目付 条約批准書交換使節ポーハタン号、品川を出発) 3月24日: (小栗、ワシントン到着) 3月28日: (小栗、James Buchanan, Jr 大統領(15代)に謁見する。) 5月12日: (小栗、ニューヨーク出発) 9月27日: (小栗、品川到着、11月から外国奉行) 1860(安政7)年: (幕府、金の量を約3分の1にした「万延小判」を鋳造) 1861(万延元)年12月4日: (ヒュースケン(アメリカ公使通訳)殺害事件(幕府は虎尾の会の犯行と考えていた)。) 1862(文久2)年 6月: (小栗、勘定奉行(勝手方/財政担当)に任ぜられる。この時上野介を襲名する。その後も、江戸町奉行、歩兵奉行、陸軍奉行、軍艦奉行など多くの重要ポストを歴任。) 1863(文久3)年 4月: (浪士組事件、八郎暗殺される。) 1863(文久3)年10月: 三井呉服店の台所(駿河町)による火事。利左エ門(利八)、幕府の三井家への御用金の負担問題(横浜店)で小栗を通じて働き三井の窮地を救う。 1865(慶応2)年: 三井に雇われ、紀伊国屋利八から三野村利左衛門と改名(44歳)。 1866(慶応2)年: (小栗忠順、徳川慶喜に東海道を進撃する政府軍を箱根で遮断する作戦を願い出るが却下される、勘定奉行罷免) 1867(慶応4)年閏4月6日: (小栗忠順斬首(群馬県権田村)) 1873(明治6)年: 第一国立銀行創立。 1876(明治9)年: 三井銀行創立。 1877(明治10)年: 利左衛門死去(57歳)。 ※<参考:郷土の先人・先覚(庄内日報社)、三野村利左衛門伝/高橋義夫)> 参考:「日本大変/三野村利左エ門伝」小栗上野介と三野村利左衛門【電子書籍】[ 高橋義夫 ] この本には、幕末、明治初期のすさんだ人心、行動の様子がいくつか出てくる。窮地にある人を見た時、その人の行動にはその弱い本性のようなものが出ることがある。ひどい不遇の幼少期を過ごした人がそれを恨み、受けたものを晴らすような気持ちで行動をするのは人の心理のような気がする。しかし、三野村はそうではなかった。自分を受けた恩を忘れず新政府に睨まれた小栗忠順の遺族を助け、小栗家の再興に尽力した。簡単なことのようだが誰でもできることではない。逆に心が弱くなり自暴自棄、あるいは利己主義などで恩を仇で返すようなことも人にはある。気持ちが折れずに行動できたのは日本にある古くからの助け合う精神、道徳、慣習の良いところが三野村の心底、体に染みついていたからではないだろうか。また、ひねくれずにそういう精神を保てたからこそ大成できたのだろう。「少年のころ、雪の降りしきる越後の高田で天保銭2枚(現在の価値で4000円程/1枚80文、1文25円として換算)を後生大事に握りしめて、一夜の宿を求めてさまよい歩いていた」という思い出のような描写が出てくる。現代の筆者には想像の範囲を超える、厳しい環境の中で育ち逆境にめげず、武士のプライドも別の形に変えた屈強な精神をもった人のように思える。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023年01月09日 20時04分49秒
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