川柳千夜一夜 第18夜 「川柳は人間」
大正11年6月「川柳は人間である」と定義づけたのは、川柳六大家の一人、兵庫の椙元紋太である。 発生論、形式論、古川柳の検証、作品の分析などいろいろな角度から川柳をみつめて、さいごに残るのは、紋太が提唱した「川柳は人間である」というのが妥当と感じる。 もう一歩踏み込めば、「川柳は作者自身」ということになるのかもしれない。 長く川柳を作っていると、生み出してきた一句一句が愛しい。 「わが句は吾が子ぞ」という言葉を残したのは、同じ六大家で東京の川上三太郎である。 句は、自分の分身であるとさえ感じる。 私は、祖父の生きた姿を知らない。私の生れる二年前に他界しているからだ。しかし、新聞や雑誌に残した約1000句強の川柳作品から、祖父・尾藤三笠の人柄が彷彿とする。 戦前、戦中、戦後を生き抜き、その時々に作られた祖父の作品は、そのまま時代を反映しているとともに、祖父のその当時の感情、環境が伝わってくる。 川柳が「作家自身」ということは、こんなことから私が体感した気持であり、また、自作において心の中を隠しても、自然に句の中に感情が出てしまう怖さがある。私の句も、やはり自身の一面を切り取って見せたものといえる。 自身の内面から感情を吐き出したとき、そこに癒しが生れることがある。 妻は、同じ文芸でも同人雑誌であるジャンルの小説を楽しむ者だが、川柳のような手軽な感情吐露をすることが無い。あるとすれば、私に対する愚痴であり、それを私が聞くことによって癒されているようだ。 わが子を喪うという極限状態で、瀕死のこどもを前に、私の中では句が生れていた。 生きている痛みいとしきいのちの灯 これは、5ヶ月の早産で生命維持のケースの中で生きようとする長男を前にしたときの思いだ。思いが、そのまま十七音になった。 さらに、死に至る過程で、また死んでからも次々と句が生れた。 ふだん、忙しい職務の中では句も出来ない川柳家が、極限状態において作句をしていた。いや、していたのではない。次々と思いが十七音になっただけである。 中には、自分の児の死に対面して川柳などを作るのは冷たい人間という人もいるかもしれない。 しかし、私にとって彼にしてやれるのは、その懸命に生きようとする一瞬一瞬を共感してやることしかなかった。 川柳は作者自身でありながら、また、宇宙との接点でもある。こどもという掛替えの無い宇宙に、私は、次々と関係をコトバに残した。 30日という短い人生を終えた長男に、私の元に残ったのは、多くの写真と夥しい句の断片だった。それを残すことにより、私は救われた気がする。 同じ体験の中で、気を病むことしかできなかった妻は、今でもその日に触れると気分が悪くなるほどの症状をみせる。まったく癒されていないのだ。 これは、子を産まない男と児を生んだ女の違いともとれるが、川柳作品を残すことによって、私の中では、彼はまだ生きている。わたしは、川柳の効果としての〈癒し〉を信じたい。 紋太は、私の直系の師系ではないが、「川柳は人間である」という言葉において、紋太と共有する川柳についてのスタンスは近い。 口先だけの選者に媚びた句会吟が川柳の本道となることなく、文芸としての川柳の復興に邁進したい。尾藤三柳も時実新子も作家と作品を大切に指導してきた。わたしも、その足跡を辿り、次の荒野へ一歩を踏み出したいと思う。