三鷹市の地図を見ると太宰治の墓があった。
どこにあるのだろうと、禅林寺の駐車場から中にはいろうと思ったが、なんの表示板もない。
見た感じが、セレモニーホールのようなガラス張りの建物があり、境内の中を車が回せるロタリーのようなものがあり寺の感じがしない。http://www.zenrinji.jp/
本当にここでいいのだろうかとの不安がよぎり、結局見つけられないままセレモニーホールのような寺を後にした。
今から思えば、スマホで、太宰の墓とかつぶやけばすぐグーグルで案内が出てきたはずだ。
http://www.mitakanavi.com/spot/map_dazai.html
だが、どこかで、必ず到達するぞ、といった執着が足りなかったのかもしれない。
行けたら行こう、というついでの訪問だったので、墓到着には至らなかった。
自分の中で、どれほど、見つけてやろうという気概があっただろうか。
駅に戻る道すがら、『太宰治 文学サロン』があった。
http://mitaka.jpn.org/dazai/
随分と立派な佇まいである。
そこで、中に入ってスタッフの方に太宰の墓について伺うと、寺の正面の左脇の下に下がる小道を入ると墓地の中に大きなイチョウの木がありそのそばに太宰の墓がある、とのこと。
その日、太宰治文学サロンでは、太宰の書いた『芥川賞ちょうだい手紙』が飾られていた。
展示されていたのは、川端康成に向けて書かれたバージョンと思われる長さ3.5メートルにも及ぶ、忍者の巻物のような手紙である。
びっしりというより、余白のある読みやすい筆による筆跡で、『どふか、おねがひします。・・』みたいなことが書かれている。
最近、9月にも太宰が佐藤春夫に宛てた芥川賞懇願手紙が発見されている。
http://www9.nhk.or.jp/kabun-blog/700/226725.html
見つかったのは、昭和10年からよくとしにかけて、20代半ばだった太宰治が文壇の重鎮で芥川賞の選考委員も務める佐藤春夫に宛てて書いた3通の手紙です。実践女子大学の河野龍也准教授が、佐藤の遺族が保管していた資料の中から発見しました。
このうち、昭和10年6月の日付があるものは初めて送った手紙とみられ、佐藤から作品の評価を伝え聞いた太宰は「うつかり気をゆるめたらバンザイが口から出さうで、たまらないのです」と喜びをつづっています。
また、昭和11年1月の手紙は長さ4メートル余りの巻紙にしたためられています。前の年に行われた芥川賞の最初の選考会で作品が候補になったものの選ばれず、手紙には「こんどの芥川賞も私のまへを素通りするやうでございましたなら、私は再び五里霧中にさまよはなければなりません」「私を忘れないで下さい」「いのちをおまかせ申しあげます」と自分の作品を選ぶよう懇願する内容になっています。
太宰治が芥川賞の選考委員に受賞を懇願する手紙やはがきはこれまでも見つかっていますが、今回の手紙の発見によって受賞を熱望する様子がさらに明らかになったと専門家は評価しています。太宰はその後も芥川賞を受賞することはなく、河野准教授は「かなわなかった敗北感がその後の核となり、のちの作品に生かされたのだろう」と指摘しています。
今回、太宰の墓について、自分の中で、どれほど、見つけることを求める気持ちがあっただろうか。
太宰は巻物にするほど芥川賞を欲しがっていた。
その差が行動に出た。
彼が、文学面でも行動面でも三鷹市でも取り上げられるのは彼の思いの強さではではないだろうか。
もし、小説とか、物書きで飯を食いたいのならどれほど、それを手に入れる気持ちがあるだろうか。
太宰の晒された手紙は、見たくない気持ちの悪いどろりとした固まりのようなものでもある。
でも、それを通して、彼の作品が、挫折の中からもがいて書かれた、非常に泥臭いもので、そこに心の叫びを感じる。
より、親しみが沸いてくる。