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カテゴリ:闘魂
日本を守るのに右も左もないでアハ体験。金貸しは教会と結託して、国家を支配したを読んで、なるほどと手を打った。ネット上ではほんとうにいろんな仮説が飛び交っている。文系の場合、認識を共有できるかどうかは、科学的な検証よりレトリックのような気もする。否、否、否。公正さに則っているかどうか、配分的正義に則っているかどうか、平和かつ安全の内に衣食住を満たすことができるかどうか、もしこれらを阻害する現実があれば、秘密のベールを剥がし、真実を知らしめ、議を起こすのが理にかなっている。この道理にそむくものは、文系であろうと理系であろうと、共有すべき認識とはいえない。科学的な検証もわかりやすいレトリックもこうした道理に奉仕すべき下僕なのだと思う。政治の責任が重いのは当然だが、日本の政治がだめなのは、敗戦によって、帝国の植民地に成り下がったからで、思想家が育たないのは、国民をして属国にすぎない現実から目をそらしているからだ。ネット空間は、だれもが自説を開陳できるので、さまざまな仮説が百花繚乱である。そうした中で鍛え抜かれた思考がひとびとの支持を受けて、共感が広がれば、やがてリアル空間に伝播して行く。そして時機が来ればひとを行動へと駆り立てる。世直しだ。
…「金貸しとキリスト教会の結託」というのは興味深い視点である。考えてみれば、金貸しと宗教は「騙し」という共通点がある。金貸しと宗教という二つの騙し存在が結託して、国家という力の存在を間接支配してきた様が見て取れる。 国家も最初は力の序列の強制共認で統合していたが、国家が秩序化・安定化し、生存圧力が衰弱した結果、力の序列だけでは統合できなくなり、支配共認として宗教の力を借りなければならなくなった。これは古代から中世の構造だが、近世ヨーロッパでは金融がキリスト教会を取り込んで国家を間接支配していく。これがローマ教会と結託したメディチ家やフッガー家だろう。 次にキリスト教の中から、より金貸しにとって都合のよい分派が生まれる。旧派であるカトリックは国家による身分秩序を正当化した思想であり、同時に私益の拡大を戒める思想である。金貸しにとっては都合が悪い。そして私益の追求を推奨する新派。これがプロテスタントである。 16世紀の宗教改革や17世紀のヨーロッパ宗教戦争も、その背後にあるのは、旧派カトリックを支援した金貸し(フッガー家・メディチ家)VS新派プロテスタントを支援した金貸しの覇権争いという構図だろう。17世紀の宗教戦争とは、金貸し同士の代理戦争だったのではないか。この代理戦争によって国家秩序は混乱し財政は窮する。金貸しが国家につけこむスキが生まれた。そして、戦費の調達を大義名分に金貸しが通貨発行権を独占したのである。 このように、金貸しが国家を支配するための武器として、同じ騙し存在であるキリスト教会を秩序破壊の尖兵として利用したというのは注目すべき事実である。そして、現在の尖兵がマスコミであることは言うまでもない… お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
July 30, 2008 10:41:22 PM
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