|
カテゴリ:タブー
金貸しは、国家を相手に金を貸すがいい。廃藩置県の大混乱と大手両替商の破綻にはっとした。昨日、副島隆彦「時代を見通す力」を読んでいて、大阪の懐徳堂の富永仲基(内藤湖南「大阪の町人学者富永仲基」参照(リンク先は青空文庫))を絶賛していたのにへえと思っていた。で、きょうは、この記事だ。大阪で生まれ、育ったので、大阪の地盤沈下にこころを痛めて来た。地盤沈下のはじまりは、幕末に仕組まれたという見解に納得。関西人として東京一極集中は絶対おかしい。集中処理は効率的なんだけれども、システムを維持するための巨大なエネルギーはなんともならん。高くつく。地産地消が圧倒的にシンプルだし、安上がりだ。おまけに危機管理の精神に適う。一極集中は、敵に首を差し出しているような脆いシステムだ。分散処理のしなやかさ、危機管理能力の高さには、到底及ばない。しかも東京のはじまりは「騙し」である。バックに外資(ロスチャイルド)が付いていた。売国薩長には付いていけませんので、ここらでお引取り願いたい。カエサルのものはカエサルに返すのが筋だ。(ところで、テレビってなんで東京ローカルのどうでもいい、しかも聞いたってどうしようもないネタを全国ネットで流すのか、頭に来て仕方ないのだが、これは関西人の性か)
…領土領民を奪われるという突然の事態にも、ほとんどの大名たちはスンナリ従います。 なぜなら、幕末に膨れ上がっていた債務で各藩は破産の危機に直面していました。 大手両替商は貸し渋りするし、藩札の取付け騒ぎが起こるわ、外国商人の借金取立てが厳しい。消費階級のトップだった「殿様」はまさに「借金王」となっていたのです。 そこへ大蔵省が「藩札と外国商の借金を引き受ける」としたのだから抵抗する道理はありません。 そして「大名貸し(藩債)」については・・・ 明治6年に定められた藩債引き受けの細則では 1843年以前の債務を帳消し。 1844~1867年の債務は無利子50年賦、 1868~1872年(明治元年以降の5年間)の債務は4分利子25年公債で償還。 となりました。 藩債のほとんどが1843年以前から積上げられていたもので、それがすべて貸し倒れとなります。特に新政府の中枢になった薩摩、土佐藩の債務は莫大なものでした。それが「無かったこと」になったのです。藩のカネを使いまくった(私用に流用した)藩首脳ほど、食い逃げして儲かる結果になりました。 さて、多額の「大名貸し」をしていた大坂の両替商にとっては最悪の事態です。 明治元年の「銀目停止(ぎんめちょうじ)」(関西で流通していた銀貨の取引停止)でも打撃を受けていた大坂の両替商はこれで息の根を止められます。 大手両替商の天王寺屋、加島屋、平野屋、升屋、炭屋、茨木屋、泉屋らが一斉に倒産しました。 この「銀目停止→新通貨移行→藩債帳消し」の政令によって、大阪は日本経済の頂点から転落。日本中のカネ(円)を中央政府に集中させ、政府首脳が食い物にする基盤が出来上がります。 新政府にとって、大阪に大資本が集中する構造はなんとしても転換しなければならない課題だったのでしょう。 一方で、徳川時代に外国貿易の担い手となった藩営事業(生糸輸出など。前橋藩や上田藩他)や各藩の所有船舶もすべて政府に取り上げられることになります。これがそのまま「政商」三井の手に渡るよう画策したのが日本国郵便蒸気船事業です。 経済学的な捉え方をすると、太閤検地から延々と続いた米本位制が崩壊したということになり、「土地経済」から「貨幣経済」へ移行しました。 その意味で近代の自由経済市場はここから始まったという言い方も間違いではありません。しかしそれは支配者が邪魔者をつぶして市場を独占する奸計を成し遂げたということに他ならないのです。 結局、詐欺まがいの徳政令により商人が持っていた債権を紙くずにして大阪商人を潰し、新通貨を中央政府の特権階級のもとに集中させる仕組みをつくる。 つまり大阪に集まっていた富を中央政府に集める策略を正当化する政策が「廃藩置県」だったということです… お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[タブー] カテゴリの最新記事
|