晴耕雨読さんはすごいと思う。陰謀論を射程に入れつつ、しかもなお、年月の経過に耐えうる議論を展開できる稀有なブロガーだ。時事的な話題という意味では物足りないかも知れないが、訪問する値打ちはある。その晴耕雨読さんのページを繰っていくと、財務官僚との長大なやりとりが続くことを発見した。古いのが難点なのだが、質の高さを知ってもらうためにも、ちょっと引用しておきたいところだが、今回は見送る。実は、これこそが新聞社に勤める友人に晴耕雨読を紹介した理由だった。しかしながら、晴耕雨読さんの底力を示す記事の方がいいかもしれない。ということで、とりあえずは、以下を引用。
その前に年次改革要望書関連(2008)記事をリンクして置く。
http://sun.ap.teacup.com/applet/souun/msgcate30/archive
では、以下引用。
「世界支配層は「産業主義近代」の終焉後の世界に向けて動いている 上」 産業主義近代の終焉
(引用はじめ)
日本に限らず、ほとんどの国の政治的支配層や"知的執事"(学者やメディア)は、歴史認識(過去の理解)に引きずられるとともに、現在の政治的経済的諸条件がこれからも続くという判断に従って政策を考えているように見える。
さらに言えば、「歴史認識」や「現在の諸条件」も、自分たちの思考成果と言うよりは、世界支配層が散布した理論や価値観を受け容れたものでしかないとも言える。
阿修羅でも様々な考えが提示されているが、やはり、多くがその枠内に留まっているように思える。
なぜなら、資本主義的産業活動を基礎とした「近代」が永遠にとは言い切らないとしても100年オーダーで継続するという理解に基づくものや、世界支配層は市場原理的自由主義を普遍的に信奉し"社会主義政策"なんか忌避するに決まっているという理解に基づくものがほとんどだからである。
しかし、これまでそして現在の「近代世界」の在り様を主導的に方向付けてきた米国政権(世界支配層の政治的エージェント)は、これまでのような「近代」がほどなく行き詰まることを見通した上で政策を決めていると判断する。
米国支配層(世界支配層)は「産業主義近代」の終焉が近いことを知っていて、その後の世界に向けて動いている。投稿者 あっしら 日時 2004 年 6 月 25 日
"彼ら"とサシで忌憚なく話をしてみたいという冗談は実現しそうもないので、メディアを通じて"彼ら"の考えを推測するしかないが、どうも、"彼ら"はちゃんと経済論理を理解しているらしいことがわかったからである。
"彼ら"は、ポスト「近代」の在り様を想定しつつ、それに向け現在を動かし続けていると捉えなければ、"彼ら"から主導権を奪うことなんかとうていできないだけでなく、"彼ら"の強欲非道な政策を止めることもできないと考えている。
"彼ら"がちゃんと経済論理を理解しているらしいとはうすうすわかっていたが、先月(5月)下旬にテレビ東京で放送された「日高レポート」でのフリードマン経済担当大統領補佐官の発言を聞いて、やっぱりわかっていると確信した。
番組でフリードマン氏は、「これまでは生産性の上昇が国民生活を向上させてきた。しかし、生産性の上昇が国民生活の向上につながらないようになった」(趣旨)と語った。
(ボンクラのせいなのかわざとなのかはわからないが、日高氏はそれに目立った反応をしなかった)
この間、「産業主義近代」の終焉をテーマにした書き込みをいくつか行ってきたが、"「産業主義近代」の終焉"とは、まさに、その「生産性の上昇が国民生活の向上につながらない時代」の到来を意味する。
以下、列挙的に説明させていただく。
● 生産性の上昇は何か
抽象的に言えば、経済活動で同じ貨幣額を投入して得られる貨幣額が増大することである。
もう少し見えやすく言えば、同じ労働力量を使って産出する財の量が増大することである。
(労働力や財の単価が変動するので、前述の定義に必ずしも合うわけではないが、根源的なものであるのでご記憶を)
具体例としては、
販売単価1万円のCDプレイヤーを生産し販売している企業がある。
去年は、それを100人の労働者で7万台生産した。
今年は、それを100人の労働者で8万台生産した。
労働者に支払う給与が同じであれば、生産が増加した1万台×1万円で1億円の増収である。
この場合、生産性の上昇率は、生産台数の増加率と同じ14.3%である。
(原材料・部品・機械設備など必要なものをすべて100人で生産するものと仮定する)
14.3%の生産性の上昇は、より効率的な生産設備をつくって利用したことによって達成されたものとする。
● 生産性の上昇が国民生活を向上させるわけ:給料アップの源泉
上記の具体例では、販促費などの経費が前年と同じであれば増収分が利益増となる。
利益額が税引き後に一定でいいと経営者が考えるのなら、増収分を労働者の給与引き上げに回すことができる。
(実際は、労働組合が賃上げ交渉でそれを引き出す必要がある)
戦後日本の高度成長期に見られた持続的な勤労者所得の増加は、このような生産性上昇→給与アップによって実現されたものである。
(実態は、経営者側が最低ラインの企業に横並びさせるかたちで決着させたので可能賃金アップよりもずっと少ない賃金アップ。それが"優良企業"をさらに"優良企業"にしていく要因ともなった)
左翼は怒るだろうが、生産性の上昇を超える給料アップは「資本の論理」が生きている現実においては究極的には不能なのである。
それは、善意の企業家が経営している会社を考えればわかる。
自分の給料以外は要らないと考えているその人は、利益ゼロで従業員の生活がよくなることをめざしている。
そこが、生産性が変わらないまま従業員の給料をアップしたらどうなるであろう。
すぐにわかるように、給料アップ分だけ赤字である。銀行から借り入れをしてしばらくはしのぐこともできるが、元利返済ができなくなりやがて倒産することになる。
● 生産性の上昇が国民生活を向上させるわけ:国内需要の拡大
CDプレイヤーを生産し販売している企業の例を思い出すと、CDプレイヤーの単価は変わっていない(上がっていない)のに、そこの労働者の給料は増加していることがわかる。
それは、今まで自分が造っているCDプレイヤーを買えなかった労働者がCDプレイヤーを買える可能性を意味する。
日本全体の勤労者の所得が増加しているのであれば、CDプレイヤーを欲しいと思っている人の多くが実際にCDプレイヤーを買うことになる。
日本全体の勤労者所得が増加しているときは、このような需要増加がいろいろな商品に対して見られるようになる。
そのため、生産性上昇で増加した生産量を超える需要増加が生まれる商品も出てくる。
それが、生産規模の増強=生産設備や就業者への需要増加につながる。
(日本の高度成長期のように完全雇用状況であれば、生産設備の改良を通じたさらなる生産性上昇追求に向かわせる)
このような経済論理が現実として働いたのが日本の高度成長期である。
● 生産性上昇の別の効用
競争原理が企業に生産性上昇を追求させる。
それは、生産性上昇は、給与アップの源泉にすることができるだけではなく、財の販売価格を引き下げる源泉としても使えるからである。
CDプレイヤーを生産し販売している企業の例で言えば、給与アップは限定的にとどめ、製品販売価格の引き下げに生産性上昇を使うことができる。
1万円だった単価を9千円に変更するとそれまでよりは需要が増加する。しかし、給与アップが限定的なので需要増加も限定的なものになる。
下手をすると、生産性上昇で増加した分の製品の一部が売れ残ることになる。
あたりの国を見回すと日本よりも貧乏な国ばかりで、CDプレイヤーはごく一部の金持ちしか買わないものであり、そのような金持ちはCDプレイヤーならうちのような安いものではなくもっと高級品を買う。
太平洋の遥か彼方だが、米国では猫も杓子もCDプレイヤーを買っている。うちも米国で売ろうと思っていたが、うちの品質では1万円はムリだと言われた。
9千円でも売れるようになったので、米国の大型小売店に声をかけると、「よし、それなら売れる」と注文が来た。
そして、「8千円になれば2倍は売れる」とも言って来た。
その見通しに意を強くしてさらなる生産性上昇に励んだ。
このようなかたちで達成した輸出拡大の継続が、日本の高度成長期のもう一つ、というかメインの支えである。
● 生産性の上昇は何に保証されるか
ここまでの説明で、生産性の上昇が達成できる条件が見えてくる。
★ 「生産性の上昇は、それに見合う給料アップを実現するか、それに見合う輸出増加を達成しなければならない。
(給料アップと輸出増加の混合でもかまわない)」
これを怠れば、生産性上昇で達成した財(製品)の生産量増加分に売れ残りが出るようになる。
そして、それは、遅かれ早かれ、生産調整(首切り)や赤字化さらには破綻につながっていく。
生産性の上昇を保証する二つの違いを国民経済から見ると、
給料アップ:供給活動投入額(給料)の増加を通じての国内需要額拡大
輸出増加:国内供給量の増加縮小
(生産性上昇で達成した製品増加量を超える輸出増加を実現すると国内供給量の縮小になる)
となる。
そして、国内需要額拡大は、販売量の増加もしくは製品単価の上昇につながり、国内供給量の増加縮小は、製品単価の下落を抑制する。
輸出増加は、輸出で稼ぐことだけに意味があるのではなく、国内に供給する財(製品)の量を抑制することにも大きな意味があることをお忘れなく。
(引用終わり)
5月中旬にビルダーバーグ会議が行われるという。また、ネットでは、政治家・官僚・メディア批判と小沢擁護が繰り広げられている。メディアは、日刊ゲンダイを除き、この国を平気で米国の属国化を進めていくつもりらしい。第四の権力といわれたパワーがネットの登場によって本当に試されている。ここは自覚があるのだと思う。ただし、顔は米国の方を向いており、米国の国益を日本のそれより優先する。確かに、新聞やテレビは、具体的な事実にあふれていて、ネットだけでは、味わえないチップスや知恵を得るにはいい。けれども、すでにネットの隆盛を見た現在、新聞・テレビを相対化できる、この単純な現実をぼくらは大切にしなければならない。過去とは違う。そう、ぼくらにはネットだってある。