井上陽水「最後のニュース」(筑紫哲也追悼)。涙声で筑紫の死を悼む陽水の名曲を聴いていてふと思いついた。旧友は自嘲気味に中東の話をするが、既存のメディアも新興のネットも結局同じだと思った。どっちにせよ、生き残るのはジャーナリストだ。真実を勇気をもって言葉にする。もしメディアにこれができなければネットに敗北するだろう。ジャーナリストが形骸化しているのなら変わればいい。変われなければネットに負けるだけだ。メディアは特権階級であった。入社数年にして黒塗りのハイヤーを乗り回していた。旧友も縦横(たてよこ)記事を多方面に気を使いながら編集しているんだろう。この多方面への配慮というのが、真実を勇気をもって言葉にするジャーナリストという仕事に不可欠なものなのだろうか。そんなもの投げ打っていま戦わなければ、ジャーナリスト精神にあふれるブロガーに勝てないだろう。どちらがジャーナリストかは読者が判断する。そして、いまのまま既得権に居座っていれば、もはや誰も見向きもしなくなる。ネット登場前と違って、業界人と一般人の情報格差はもはや大きいものではない。判断の目は厳しくなっているということだ。しかし、逆に言えば、ジャーナリスト精神あふれる言論人は、メディアでも通用するし、ネットでも支持される。タブーを乗り越えることだ。
さて、陰謀論アーカイブ。陰謀論に関する論考も溜まってきた。今日は、中田安彦氏のブログより、陰謀論に対する考え方で大事なこと。
(引用はじめ)
…「学問道場」の方でも書きましたが、最近私は、世間での「陰謀論」ブームに対して、やや懸念を覚えています。
1. 「陰謀論」ブームが、都市伝説ブームと同時に宣伝されている点。
2. 「陰謀論」の中には論理的飛躍が多すぎるものもある点。
3. 「陰謀論」の中には検証不可能なものもあり、「言った者勝ち」であるものが多い点
このように、「陰謀論」自体が、予言の自己成就的なものになっているケースが多い。
このブログのコメントで、SeaMountさんが書いてくれていますが、「陰謀論も反陰謀論もドグマになってはならない」という点がきわめて重要なのです。反陰謀論、すなわち、権力者の共謀仮説に反論することが商売(=本を売っているのですから「商売」ですわな)になっている「と学会」のような人たちは、ある意味で始めに結論ありきです。まあこれはこれで良いでしょう。
ただ、同時に陰謀論という分野についても、陰謀論者といわれる中には、ある種の結論が最初にある。それは、「認識モデル」だといってしまえばいいのですが、実際の現実はそこまで単純ではない。モデルはモデルであり、あくまで認識の出発点なのです。情報や分析の受取手はそのモデルによって生まれるバイアスも含めて受け取らなければならない。
例えば、経済学でも「この人はケインジアンだからこういう結論になって、あいつはマネタリストだからこういう結論になる」という感じに割り切った形で読むでしょう。この経済学者が言っていることは必ず正しいのだ、として読むのは間違いです。
要するに、経済学も陰謀論の一種ですから、何らかのアサンプション(前提)が最初にあるわけですね。そのアサンプションについては一応「公理」だということになっていて、検証しなくて良いことになっています。しかし、このアサンプションがいい加減だったり、ころころ変わるとその後の議論も滅茶苦茶になってくる。ひどい例になると、議論であるべきものが、知らない間にアサンプションになってしまっているケースもある。それは、そうやっていくと自分で議論を作るときに非常に楽だからなのです。
私もそういう誘惑に駆られることが多いのですが、要は何でも陰謀にしてしまおうと思えば出来るわけです。
しかし、それはドグマであり、仮説と検証のプロセスを経なければ成らない。したがって、私がブログで書く内容と本で書く内容にはかなりの差があります。ブログは仮説の紹介の場であり、本では仮説よりも進んだある程度の本当らしさをふまえて書きますから。
だけど、世の中の本には、特に書店の「精神世界」というコーナーに並んでいる本の中には、検証不可能なな自説と客観的な事実をごちゃ混ぜにしたような本も並んでいる。それは、「2012年にアセンションが起きる」という類の宗教に近い本や、「宇宙人や地底人が存在する」という本である。
時々、このような本の中には「もうすぐ宇宙人がやってきます」というタイトルなのに、中身を読むと、ワンタ事件やらビルダーバーグ会議やら三〇〇人委員会の話やら、陰謀系のブログからマルうつししているだけの本だったりする。こういうものはエンターテインメントだから良いじゃないかと私は最近まで思っていたのだが、どうやらこれが事実だと早合点してしまう人もいるらしいのでやっかいである。
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さて、私は、ロンドンに行ったとき、「陰謀論」というのは「距離ビジネス」だということを発見した。陰謀系の読者であっても、わざわざロンドンのフリーメーソンのグランドロッジを訪れた人は少ない。しかし、実際にそこに行ってみると、そこは確かに儀式を行う場所は閉鎖されていたが、普段から見学ツアーを行っている、観光地であり、土産物屋まであるのである。
歴史上、フリーメーソンが市民結社としてブルジョア市民社会の形成を行う際に、王権に対する共謀を行った事実はあるのであろう。過去において、一部の跳ね返りが悪魔的な儀式を行ったり、幼児虐待をしたりしていた例はあるだろう。そして、そのような儀式は、犯罪行為として今も行われているとも聞いたことがある。しかし、それは悪魔的儀式というよりは、性犯罪であるし、それは日本でも行われていることである。
陰謀論のメッカ、タヴィストック研究所というものも実際に存在するし、私はその建物を見てきた。この建物は、英国の心理学協会が入っている。チャタムハウスの建物はちょっとした裏通りにあって見つけにくい。アメリカのCFRの建物にも私は入った…
(写真略)
…だから、陰謀論というのは、受け取り手の距離を利用した、一種の「距離ビジネス」なのである。実際に行って見たことはないけれども、何となく魅惑的な存在がある。陰謀論はそれを飾り立てる。そういう脚色が行われている。
したがって、陰謀論を受け取る側には、「まずその言われている陰謀論の内容を真っ先に疑う」という否定の態度が求められる。その否定や自問自答を繰り返して、数々のNOを自分から発して検証した後、それでも確からしいと信じられるものだけを受容すべきであって、魅力的な陰謀論にパッと飛びつくとひどい目にあう。これは私自身がいろいろと間違った経験からも言えることである…
(引用終わり)
陰謀論はモデルである。認識の出発として意味があるという主張だ。こういう自分の頭で納得して反芻してきた言葉はすっと入ってくる。職業インテリではないけれども、ひとの吐く言葉が本物かどうか、表面だけのものかどうかは、わかる。思考のプロセスを足跡として書き綴った文章は、自分の頭で搾り出した言葉だから、重みが違う。若き日の河合隼雄の「ユング心理学入門」には、そういうドグマでない、真実の言葉が並んでいたし、東浩紀の「存在論的、郵便的」も、自分の頭でつむぎだした、思考の軌跡がしかととどめられていた。陰謀論について、自分の頭で考えて、正面で向き合うことも大切な時期にさしかかっているんではないだろうか。たとえば、ミクロの場面では、他者とのかかわりにおいて、はかりごとから身を守るために、距離を置いて、矜持ある行動を示せるように、普段から気をつけておく。これはすべてのコミュニケーションに潜む罠かも知れない。モデル=認識の出発点としての陰謀論ということだが、歴史にAS-ISはありえないと思うので、確かにTO-BEから出発するアプローチもありえると思った次第。中田氏の着想に説得力を感じた。