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カテゴリ:闘魂
晴耕雨読さんの記事より。ぼくは不勉強だから判断がつかないが、視点を変えれば、こういう歴史観もなるほど説得力を感じさせる。大胆な見立ての少数説の方が面白いといえば面白い。日英関係の歴史において、西郷隆盛の理解が鍵であるという主張だ。引用はしていないが、西郷隆盛類似の理解しにくい像を付与されているフィギュアとして、聖徳太子と田中角栄を挙げている。別に歴史で飯を食っているわけではないので、腑に落ちるかどうかが評価基準だ。人間心理をえぐる小説の世界に近接してくる。帝国主義的政策の具体的現象面は、こういう形で現れると、対論に出会うまで、とりあえず理解しておく。では、被統治者に真実の像を結ばせないことより。
(貼り付けはじめ) 鳥羽伏見の戦いが起きる1年まえぐらから、西郷とアーネストサトウの接触ははげしくなっていますが、サトウが西郷に早く軍事行動を起こす様にけしかけたり、西郷がのらりくらりと交わしたり、といったような駆け引きがあったようです。 勿論西郷はサトウ(イギリス)の魂胆を見抜いていたのでしょう。 前回も述べましたとおり、西郷は、表面はあくまでイギリスの言う事を聞くフリをして戦いを起こしながら、勝と打ち合わせて最終的には国内が長い間の内乱状態となることを回避し、イギリスの「日本人同士を憎ませ・戦わせることによって利益をえる」というイギリス人得意のDivide and Rule戦法の裏をかきました。 私は、このときの当時のイギリス人関係者達の気持ちを感じることができます。 「我々が遠隔操作で新しく作った日本という国を今後コントロールして行くにあたって、西郷という人間は邪魔だ。いつか彼は処分されなければならない。」~と。 新しく日本が出来て間もなく、明治政府はヨーロッパに使節団を派遣する事となります。 ここでもDivide and Ruleの原理に基づき、革命政府の主要な人物を二つに分けることとなりますが、このような判断を明治政府にさせる際にも、イギリスはかげながら関与していたと思います。 このようにグループを二つに割る事により一種の派閥が生まれ、将来その派閥を戦わせることによって、イギリスが事態の推移をコントロールしやすくなる余地が生まれる(革命家集団が一致団結してイギリスに反抗されることは避けなければならない)とともに、同時に派閥同士が仲たがいする際に、イギリスにとって邪魔な人間を処分することもやりやすくなるからです。 (西郷はそうやって、イギリスが自然な形で自分達を追いこもうとしている事も、岸壁から使節団を見送りながら十分わかっていたでしょう。) ちなみにこのヨーロッパ使節団は、「当初条約改正を目的としていたが、現地に実際に行ってみてそれが事実上不可能である事を知り、目的は西洋視察に切りかえられた。」ということになっています。 これも悪い冗談だと思います。彼ら革命集団がそんなに頭が悪いはずはありません。 では本当の理由はなんだったのでしょうか?私は、新国家設立の挨拶回り、もっと有体にいえば、イギリス女王に「ご挨拶」に行くことが目的だったのではないか、という気がしています。 彼ら自身全員がそのような目的を明確に理解していたかどうかは分かりませんが、トップ数人は少なくとも自覚していたことでしょう。でもそんなことを公にすることはできません。 明治政府の、表面上の「建て前」と裏の「本音」の乖離は既にこの頃から明確に始まっていたことになります。 彼らの留守中にいわゆる朝鮮問題が発生し、西郷が代表として朝鮮に行くことになります。 このとき彼がいわゆる「征韓論」を唱えたということが真っ赤な嘘であることは、たしかすみちゃんが以前触れていたと記憶していますので、省略します。 (尚、この朝鮮問題の発生原因も裏を調べると以外な事実が出てくるかもしれないと思っています。(北朝鮮不審船と同じような構図があるかもしれません。)) イギリスは、洋行組に命じて西郷渡韓を阻止しようとさせます。イギリスは何故阻止したかったのでしょうか? 私は「西郷が朝鮮政府に真の欧米(特にイギリス)の意図を伝え、水面下で手を握り合うことを阻止したかったから」ではないか、と推測しています。 イギリスとしては、いわば江戸城明け渡しで裏をかかれたことの二の舞を避けるため、というのが本来の目的だったのだろうと思います。 ここで明確に西郷路線とイギリス路線の対立の構図が明確となり、その意図するものが衝突することがはっきりしてきました。 日本人と隣国の朝鮮人とは憎みあうように仕向けなければならない(Divide and Rule)、というイギリスの基本方針は、この頃から明確に意識されていた事になります。 それでは、イギリスは誰に西郷を始末させれば良いのでしょうか? あなただったらどうしますか? イギリスは、若い頃からの革命の同士である大久保に始末させることを選択しました。 より上位にある者が、下位者の誰かを始末するときに、自ら手を下さず、昔一番中の良かった人間にやらせ、その忠誠心を確認する、というのは、古来からどこでも行なわれてきたことであり、またイギリス人の好む手法でもあります。 類似のシナリオは今でも劇や映画等で良く出てくるのではないでしょうか? 「昔の友人を裏切れ!それがおまえが生きていく為の唯一の道なのだ。」。そのように仕向けることは、統治者として一種の快感が伴います。 二人の心の中の葛藤を理解できるからこそ、より一層興趣は盛り上がる、という支配者イギリス人がいかにも好みそうなシテゥエーションです。 友を裏切って葬り去ったとたん、「ご苦労さんだった。ということは君の出番もこれで終わりだっていうことだ。」というせりふで、「ズドン」と始末されてしまう、というのも、これまた三流映画お決まりのセリフですよね。 以上、幕末から西南戦争までのシナリオは、イギリスを主導としてある程度事前に書かれていたものだったようです。 主目的は、「第一に西郷の始末。合わせて、最終的にはイギリスに弓を引きそうな人間的力量をもつ大久保も始末し、よりイギリスのいう事を聞きそうな連中(大隈・伊藤)グループへ主導権を移行させる。」ことだったと思います。 ここまで書いてくれば、「なあんだ。このシナリオって、例えば「イラクのバース党がクーデターで政権を取り、上位者が死んでCIA本命のフセインに実権が移っていく」といったシナリオにそっくりじゃん。」ということに気づかれる方も多いのではないか、と思います。 ところで、西郷は何故「征韓論」という汚名を着せられたのでしょうか? それは、被統治者(日本国民)に西郷が本当にやろうとしていた事を理解させてはならなかったからです。 西郷の本質を理解されてしまう事は統治者(含:イギリス)にとって危険なことなのです。 そこで、彼らは、国民が西郷という人間像をきちんと理解できないようにするために「征韓論者」という偽のレッテル(仮面)を貼ります。 しかし、一方で、彼が明治維新の際に行った事績を未だ実感として覚えて生きている人は多い。そこで、もうひとつの仮面「彼は敬天愛人を唱えた仁者だった。」という仮面を与えます。 今でも、一般の日本人は、「征韓論」と「仁者」という二つのマジックワードに惑わされ、西郷に関するひとつの明確な「像」を結ぶことを妨げられているようです。 もしこのトリックに気づく人間は、同時に明治維新の勝利者側の裏の事跡を見破ることになってしまいます… (貼り付け終わり) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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