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カテゴリ:闘魂
吉田祐二「日銀 円の王権」読了。
曰く、「歴史をさかのぼることで、いろいろと明らかになることがある。その反対に、歴史的な洞察をいっさい省いて、現状の分析のみに終始すると見えなくなることがたくさんある。大学や研究所などのアカデミックな場では相変わらずの経済論争が続いているが、これなどは、歴史的な視点、および人的な視点を欠いたものばかりである」 これが著者の寄って立つ立場だ。松方正義、高橋是清、井上準之助、池田成彬…。歴代の金融権力者が欧米の金融資本家とどのようなやりとりをして来たのかを通して、中央銀行システムの抑圧装置としての役割を浮き彫りにしている。 また曰く、「「信用創造」の鍵を握るものと、支配されるもの―この対立軸以外は、すべて嘘であると筆者は考える。逆に、この対立軸の認識さえブレなければ、現実を正しく認識できるはずである。たとえば、「右」と「左」などという、とってつけたような政治的対立軸に惑わされることはなくなるだろう」 こう断言して憚らない著者は、この度の金融危機をつぎのようにさばく。 (引用開始) …サブプライム自体は表面に見える「現象」に過ぎないのであって、「原因」ではないのである… …サブプライムの原因には、銀行制度の変更が大きく影響している。それがアメリカで1999年に発効した「金融サービス近代化法」…である… …銀行と証券会社は…機能上まったく違うのである。 しかし、その異なる2つの機関が同一になったらどうなるだろうか? 銀行は、企業や個人に貸し出していた、本来は生産的な用途に使用されるべきマネーが、投機性の高い証券の購入に当てられることになる。今まで投資などに縁のなかった人たちにとって、自分の知らないところで、銀行が預金を勝手に投機にまわすという事態が起こる。 銀行が「信用創造」により作り出したマネーを、あやしげな投機にまわしたしまったのだ。健全な投資ならば、投資されたマネーは事業を起こすための設備費などに費やされる。それはモノの値段であるから、適切な投資額というのはだいたい決まってくる。しかし、マネーゲームでは、まさにギャンブルに浪費するようなもので、投資の限度額はない。 そうすると、作り出されたマネーが、際限なくひたすら証券市場へ流入してしまうことになる。市場を、マネーであふれさせることになる… …2008年不況について論じる多くの経済学者やエコノミストは、金融工学上の不備を具体的に指摘するが、その背後にある金融制度の変更…銀行と証券業務の分離撤廃―について述べている論者は少ない… (引用終わり) 鮮やかなさばきに思わずうなる。そもそもグラス・スチーガル法が銀行と証券の相乗りを禁じたのは、ロックフェラーがJPモルガンを追い落とすための手段だった。建前はともかく、実質はそういうことだったらしい。 そういう泥臭い経済や金融の歴史を積み上げることで、中央銀行のネットワークがどのような形で機能して来たか、日本の中央銀行の歴史を中心に具体的に再構成している。 さらに瞠目すべきことに、中央銀行の力を縛るための方策として、ハイエクの「フリー・バンキング」を紹介している。 フリー・バンキングとは、民間の銀行が自由に貨幣を発行するシステムで、これにより、貨幣の価値が競争にさらされて、銀行の信用創造を抑制することができる。つまり、健全な貨幣政策をとった銀行のみが、健全な健全な経営基盤を持て、おまけにさらに良いことに、複数の貨幣が流通するので、どれかひとつの貨幣が減価しても市場は混乱しない。 これは実際に1913年にFRBができるまで、米国に存在していたシステムで、米国は中央銀行がないままで、20世紀初頭には世界一の経済大国になったのであった。 地域通貨と相通ずる感じがしないでもない。さらにいえば、電子マネーがこのまま発展して行けば、事実上、フリー・バンキング・システムが出来上がるのではないだろうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
May 5, 2010 07:06:27 PM
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