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カテゴリ:闘魂
小出裕章「原発はいらない」(幻冬舎ルネッサンス新書)より、「第三章 原発に関する何でもQ&A」の「12 原子力安全委員会、原子力・保安院は原発事故防止のために、どんな役割を果たしたのでしょう。同じ組織は二つも必要ないと思います。」を引用します。 (引用はじめ) いずれも原発推進の機関にすぎない 原子力安全委員会と原子力安全・保安院は、ともに国の機関です。原子力安全委員会は内閣府、原子力・保安院は経済産業省に属します。 一般には、原子力の安全を守るための組織と思われていますが、原発は国策として推進してきたものですから、それを前提にする限り両機関ともに原発の存在自体は容認することになります。 原子力安全・保安院は民間の事業者、たとえば東京電力に対して安全規制などの指導を行なう役割を担っていますが、それが極めて不十分で、なおざりであったことが今回の事故で明るみに出ました。そもそも、原発を推進する資源エネルギー庁と、原発の安全審査をする原子力安全・保安院が同じ経済産業省に属しているのは、おかしな話です。「お仲間」なのですから、安全審査がなおざりになるのも当然でしょう。 このような批判を受けて政府は、原子力安全・保安院を経済産業省から分離して、独立機関にする方針を打ち出しました。 原子力安全委員会の会議には、議事録がない? 原子力安全委員会では原子力の専門家が委員を務めていますが、「原発は安全だ。事故は絶対に起きない」と主張してきた人たちばかりです。政府に助言を要請されても、二時間ぐらい話し合って、「国の言っていることは妥当です」で終わりです。 私は、裁判などを通じて原子力安全委員会の実情も見てきました。専門家の委員会といえば議論百出のはずですが、それがまったくの見込み違いで、ほとんど実質的な審査をせずに結論を出していました。さながら、政府や官僚の操り人形みたいな役割を淡々とこなしているだけの組織です。議事録すらない委員会も度々開かれていました。 両機関が事故防止にどんな役割を果たしたかというご質問に対しては、ほとんど役に立たなかったと言うしかありません。むしろ、表現は不適当かもしれませんが、「事故の共犯者」とさえ言ってもいいくらいです。 また、ご指摘の通り、この種の機関が二つもある必要はないでしょう。原発の存在そのものを前提としてしまう限り、どのような組織を作っても同じだと私は思いますが、それでも原子力事業を監視する専門家集団として中立的な機関を一つ作れば、今より少しはましになるかもしれません。 (引用おわり) 冒頭で引用した山中氏の講演で、自然科学における仮説と検証、そして、大学院システムの片鱗を垣間見ることができる。 そういう意味で、同じ科学の側に立つ小出裕章氏の所論を尊重する。そして、日本のエネルギー政策とその背後にある「すけべ心」に対して、嫌悪感を覚える。科学者の思いを利用する政治・経済は必要なものであるが、誠に心もとない。 小出氏の所論はこれからも追いかけて生きたいし、その文脈で、「あの人の人生を知ろう~湯川秀樹」にアクセスする。 (引用はじめ) このノーベル賞受賞の前年、湯川はオッペンハイマー博士から米国に客員教授として招かれ、今後の人生を変える重大な体験をする。オッペンハイマーはその昔、彼が関っていた専門誌へ湯川が投稿した「中間子論」を一笑に付し、論文掲載を拒否したことがあった。また、自身が開発を指揮した原爆が3年前に日本へ投下されたことへの自責の念もあり、湯川を世界トップクラスの研究所へ招いたのだ。湯川が米国に到着すると、すぐにある人物が研究室を訪ねて来た。アインシュタインだ。 湯川は扉を開けて驚いた。彼のヒーローでもある、70歳になろうかというあのアインシュタインが、湯川の両手を握り締めて激しく泣き出したのだ!そして、何度もこう繰り返した「原爆で何の罪もない日本人を傷つけてしまった…許して下さい」。原爆はアインシュタインが1905年に発表した特殊相対性理論、E = mc2という公式を基にした兵器だった。アインシュタインはナチスの迫害を受けてアメリカに亡命したユダヤ人。彼はヒトラーが原爆の開発に着手したことを知って危機感を持ち、1939年、ルーズベルト米大統領に対して「絶対にドイツより先に核兵器を製造せねばならない」と進言したのだ。 ※1954年、死の前年にアインシュタインは「もし私があのヒロシマとナガサキのことを予見していたなら、1905年に発見した公式を破棄していただろう」と語っている。 目の前で世界最高の科学者が肩を震わせて涙に暮れている姿を見て、湯川は大変な衝撃を受けた。「人間」アインシュタインの良心に触れた彼は、学者は研究室の中が世界の全てになりがちだが、世界の平和なくして学問はないという考えに至り、以後、積極的に平和運動に取り組んでいく。彼はまずアインシュタインが推進する世界連邦運動に加わった。これは世界を連邦制にすることで、国家から領土拡大の野望を駆逐するものだ。そして各国の指導者に核兵器廃棄を勧告する平和宣言『ラッセル=アインシュタイン宣言』に署名した11名(全員がノーベル賞受賞者)に名を連ね、科学者を中心としたパグウォッシュ会議(1995年ノーベル平和賞受賞)に参加してゆく。国内では川端康成らと世界平和アピール7人委員会を結成し、反戦と核兵器全廃を訴え続けた。そして地球共同体を夢見ながら1981年74歳で永眠した。 (引用終わり) 山中氏にはこの一文をささげたい。僕は学生時代、反骨で、入学式にも卒業式にも参加しなかった。当局に対するネガティブな印象を持っていた。それは時代のせいだといえばそうかも知れない。同じような行動を取ったひとは別に僕だけではないし、ごくフツウのことでさえあったかも知れない。 ただ、この年になって、母校を応援する気持ちは強いし、進路選択にあたって、別の選択もあったという気持ちはある。 しかし、後悔はない。「自由」の本質は「自主自立」である。僕は「自由」を履き違えたりはしなかったし、十字架を背負って生きているし、これからも背負って生きていく。 追記: 念のために言っておくが、湯川氏の平和運動に賛同しているわけではない。NWO(世界連邦)には反対の立場だ。にもかかわらず引用したのは、研究室に閉じこもっているだけが研究じゃないという見解に希望を見たからだ。 ただただ小出氏の生き方への共感を示したかった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
July 18, 2011 10:57:45 PM
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