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カテゴリ:息抜き
教会に行くと日常生活では会えないような「異質」なひとたちと交わえる。さきほど、派遣牧師の説教録を読んでいたのだが、彼(老人)は、他人の金で、大学を卒業して、大学院を卒業したと言って、感謝する。
背景には、父母をなくし、夜間高校を北海道で、マイナス30度の中で、無遅刻無欠勤で、行える体力と気力があった。目的意識(志)はまだ子供だったので、無かったかも知れない。しかし、その境遇が僕自身のそれとは全く、180度異なるので、興奮した。 目からウロコである。あと30冊ほどあるが、読むのが楽しみになってきた。 キリスト者の友人に感謝するとともに、なぜ僕の手元にそれが置かれているのか、この不思議こそが、人生の醍醐味であり、人と交わることの楽しさである。あの冊子を作られた方のご苦労のしのばれる「力作」であった。それもこれも牧師の努力と彼をして語らしめた「大いなる存在」のせいだ。 さて、前置きはこれぐらいにして、ブログテーマは平易に、身近なことから語るという宣言を前々回の投稿で、宣言したので、書く。 堤未果「政府は必ず嘘をつく」(角川SSC新書)に触発されている。昨日、彼女にこのブログの存在を伝達して、返事を返してくれたので、それに応えねばと思った。 ぼくの家内もそうだが、女性は社会的な地位は不安定なので、それもこれも「社会的分業」が原因かも知れないとここではほのめかすくらいしかできないし、語る資格もない。 その女性の一番いいところが「妥協しない」面に表れるときがある。偽善を嫌うのだ。 先週の牧者(これは上述の牧者より年長)は齢(よはい)80を越えて、ひとは他人のことを理解できないという達観を持っていたが、美しい誤解によって、ひとを行動にいざなうという立場だった。 堤さんの前掲書では、出展の銘記はもちろん、新書という制約はあれども、彼女が使命につかれて、自分の頭で、判断するのは、昨今の科学技術の発達を考えるともはや難しい、という話が含まれていた。 彼女は胆力があって、どう世界に関与するかについて、彼女なりの世界における彼女の立ち位置を自覚した上で、その自覚に至った経緯を含めて、書いて伝える能力があるし、筆力も十分だ。 彼女は自分の持てるものをすべて、書籍の形で世に問う。そして、彼女の職業はジャーナリストであって、新聞記者ではない。フリーランスで、その作品毎が勝負で、いわば自営業だ。 現在、僕の立っているところは、父親であり、サラリーマンであり、にもかかわらず、強欲に支配された、ウォールストリートを含め、国内外の既得権益者のあまりのひどさに慄然としている親父(おやじ)である。 官僚やメディアを批判をこうやってしてきたけれども、日々、精神的・肉体的な苦役に耐えて、27年目に入ろうとしている、しかも、障碍者手帳を持つ「弱者」だ。 高校大学の同級生は、それこそいろんな分野で活躍していて、それに輪をかけて、教会やボランティアでひととの出会いを繰り返している。 安全圏にいながら、そして、すこし汚れ役を担いながら、自分の立ち位置に無自覚で、にもかかわらず、信用創造の濡れ手に粟の仕組みが制度上保障されている現実や中央銀行のネットワークがいままでどう機能して来て、今後どうなっていくのか、それらが破綻しつつある現実(吉田祐二「日銀 円の王権」参照)も分かっていて、行動できない凡庸さに苛まされている。 こういう僕は、あきらめるしかないだろうというのが、一応の結論で、だから、家内と子供たちに期待している。家内も迷惑だろうけど、これがありのままの僕であり、申し訳ないけれども、現在のこのフレームワークは、取っ払うリスクに耐えられない。 それくらい自分を弱者だと思っていて、にもかかわらず、ネットに漂流する記事や、本屋で並んでいる新書を見ては、現在の時流を知ろうと好奇心が働く。 その結果、堤氏に出会ったのだが、そのメッセージは明確で、ネットというのは常に時代を先取りしているような「カナリア」的なところがあるのをしっかりと受け止めて、自分の経験を文章にするプロの技に驚く。 抽象的な話ではなく、ジャーナリストとしてあくまで具体的なティテールに基づきながら、作品を世に問うのは、「定型」者のそれであり、「自閉症」スペクトラム上の端にある者には決してできない業だ。 で、僕の今日の駄文の趣旨は、宗教への対峙と日常生活の維持、そして、近代主義の弊害に対するアクションという三角形をどうバランスさせるかだ。 年齢的に50歳を越えて、免疫力も低下し、視力も老眼で見えないので、単線的な発展史観はもはや無理である。するとどう成熟して行くかしか選択肢はない。 この三角形で切り落とさざるを得ないのは、アクションになる。OWSなどツイッターフェイスブックはもはや限界かも知れない。少なくとも、スマートフォンやグーグルアップスで管理されてしまった上で、堤氏のいうオーウェル「1984」の世界に立ち向かうかというと、残されたのはもはやライブしかないのだ。 そして、今回の原発で、あろうことに中央政府は、ガレキを分散処理しようという暴挙に出ている。いずれにしても、アクションは年齢的なものも含めて、障害者的な理由もあって、もはや不可能だ。 したがって、勢い、残されたのは「ウォッチ」すること、出来れば、現場に立ち会えればいいのだが、それは期待できない。 ジョン・レノンの「Watching The Wheels」を最後に置いて、今回のしまりのないUPを校了とする。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
April 8, 2012 09:33:13 AM
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