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カテゴリ:きょうの宣言
教会の友人の亡くなったご主人を偲んで作られた冊子を読んでいた。彼は、30歳ぐらいで洗礼を受けている。職歴を見るとやりたいことしかしていないし、自分が学んだことはきっちり著作として残している。別に、修士号を取ったわけでなく、にもかかわらず、大学で教えて、生活していて、おまけに、タイトルに示した問題意識だから、都合のよいことに、ちょうど私がその遺志を継ぐのに適任だと思えてきた。
まずアジア。私の第二外国語は中国語だ。なぜ、大学で中国語を選んだのかというと、当時(81年)の段階ですでに将来性を感じていたからだ。理由は端折るがとにかく将来性を感じていた。そこに、ゼミで、先生からアジア主義について学ぶ。以後、各地に渡航したが、そして、友人も出来たが、期待に応え得なかった。意味ある何物をも生み出さなかった。姿勢がそういう姿勢だったからだ。 つぎに人権。私はマイノリティだ。なのに連帯の方向をめざさなかった。孤独を好んだようなところがあるからだ。しかし、それであれば、こうして、ネットに向かうのは、矛盾している。結局、馬鹿だから、ということになってしまう。偏見を恐れ、カミングアウトできないのだ。ついでにいえば、芦部「憲法」は学習した。 そして、キリスト教。家内がきっかけだ。通うことで、学びを得た。愛こそがすべて。姿勢が変わった。日々実践だ。「感謝・奉仕・祈り」という証言を先日聴いた。祈りがなければ奉仕はできない。意見の分かれるところだが、奉仕がなければ感謝は信仰の観点で言うと、十分に活きていない。ここを原点にすることで、アジアや人権を適切な場所に再配置することができる。編み直しの作業が必要だ。 昨年のクリスマスに受洗した。 彼のような転職はできそうにないけれども、そして、もはや彼の年齢を越えて生き延びているのだけれども、彼が三位一体と言った、これらのテーマがどう関連しあっているのか、彼の軌跡を追うことによって、何か見えてくるかもしれない。というか、もはや、それしか、たよりになるものは残されていない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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