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カテゴリ:ちょっと思うこと
前回は、第二次大戦後のアメリカの中流家庭の様子をTVのホームドラマで垣間見た日本人が、そこに登場した、彼らの住む家屋の特徴の一つであった子供部屋の存在を脳裏に残し、自分が家を建てる時に、その記憶が影響して、子供部屋を持つことになったのではないかと書いた。
しかし、全ての人の記憶に残っていたと言うはずも無いし、全ての人たちが注文住宅を建てたわけでもないから、30数年前~現在に至るまで、ハウジングメーカーが、そうした間取りの集合住宅や、戸建の家屋を提案し、建売住宅にもそうした思想が持ち込まれていたと考えられる。 故池田首相の所得倍増政策や東京オリンピックなどを契機とした高度成長の時代を経て、日本の住宅はそれまでの伝統的な日本の家屋の建て方に、徐々に欧米の様式が持ち込まれ、引き戸からドアに代わって行ったように、間取りのあり方も、連続する畳の部屋をフスマが仕切っている様な間取りが徐々に無くなって、欧米風のドアのある床張りの洋室が採り入れられて来たのです。 そうした流れは、、GHQ統治下であった時代以降、欧米の家屋の形態を何らかの情報によってハウジングメーカー自身も影響を受けて来た経緯が見て取れ、その情報元の一つとしてTVコンテンツがあり、アメリカ人のホームドラマが無縁であるとは考えにくいのです。 そうしたマスメディアの影響もあり、ハウジングメーカーも家屋の欧米化を提案し、施主の心には少年時代に憧れた、当時の自分には無かった自分専用の子供部屋を作ることがより理想的なものに見えていたに違いないので、多くの建売住宅でも、そのような家屋は人気が出るし、その傾向からハウジングメーカーは、さらにそのような様式を前面に推して販売してきたと考えられるわけです。 かくして、欧米の様式を取り入れた和洋折衷型の家屋が標準となって行き、家を買う、或いは建てる側の選択肢の殆どに子供部屋が存在するようになってしまったのでしょう。 そうして考えると、ハウジングメーカーは、私の言う、宗教的倫理教育を受けない日本人の子供に、親に秘密で自由にマスメディアに接する機会を与えてしまった張本人であると言えそうだ。 しかし、包丁での殺人事件があったとして、その原因を作ったのは、包丁職人が殺傷能力の在る包丁を作った事が主原因だとは言えないのと同じで、主原因は適切な時期に子供に倫理観を育てる教育をしなかった側に在ることは明白なことで、現在の病める家庭や学校、そして社会を作った原因は、親であり、教育行政の失敗であったと言えるだろう。 戦後の力強い復興は、戦前に教育を受けた人々の頑張りなのであり、子供の頃に受けた儒教的な教育がベースになっている人々の力が主役を担ったのです。 その人たちの子供である団塊の世代の我々は、そうした古い時代の人々に教育を受け、学校では教師にビンタをくらい、廊下に立たされて育つような環境下にあったためか、戦前の人々にやや似た育ち方をした人も多かったので、まだ古き良き部分の日本の風習や精神文化を継承していたが、我々団塊の世代の人々の子供達はと言えば、高度成長期後に生まれバブル期に育ったこともあってか、戦前に教育を受けた人々の影響は殆ど無く、お金こそが力であり、お金持ちであることが社会で最も成功した者というような風潮の中にあって、どのように生きているかと言う部分は問われず、結果的にお金持ちになることが良いことであるといった、大方の世間の認識に塗れて育ってきたのです。 何が正しく、何が崇高なことで、何が卑しい事か、といった理念や倫理観を確信を持って語られることも無く、指導されずに育ったアン・フォーマッテッドな状態の子供が、子供部屋という個室の中で、ほぼ抑制の無いマス・メディアや子供の情操のことなどに関心の無い、儲かれば良い的な思想の元に作られるゲームコンテンツやコミックス等の情報の洪水にさらされてきた家庭が多数あると言えるわけです。 アメリカでは女性の下着のコマーシャルさえ子供の見るような時間帯には許されないほど、成長期の子供の情操にとって有害と思われるコンテンツやコマーシャルのTV放送に関して、日本よりずっと厳格な規制をしています。 そこの部分が、ほぼキリスト教社会であるアメリカ社会と違うところであり、日本人が等閑にして忘れてしまった部分なのです。 精神的教育が無いままでも、親が子供に与える情報を選別できる環境に有るなら良いと考えるかもしれないが、それはやはり違うだろう、幼い時から人として生きるには何が必要不可欠か考えれば、自ずと見えてくる物が有る・・・・我々はすでに社会に生きる人間であってビーストではないのだから。 人間の精神教育に宗教が不可欠だと私は全く思っていないけれど、自分にとっての価値判断や倫理観、理念などを育てる学習は不可欠であり、何も教育を受けないくらいなら、歴史的に実績のある宗教による教育が行われた方が、社会秩序の為にはましなような気がするが、宗教の違いによる国際的な対立の現状を見ていると、どっちもどっちなので、宗教によらない科学と哲学による公平な価値観と倫理観を持つことが理想と言えるように思われるのです。 いずれにせよ、我が子へ与える情報を選択をすべきことと、子供への精神的な教育の必要性は不可欠だが、親があらゆる場面で、子供の見本になれるような社会に恥じること無い生き方をし、言動が出来るように生きることが望まれることであり、自分の人生でそれを実践、証明するような生き方をすべきだろう。 そのために、この地球上の人間社会と自然環境の中で生きるうえに最も整合性の有る、証明可能な理論に基づく思想を探すか、自ら考える必要が有ると言えるだろう、人間社会を弱肉強食の前世代に戻さない為には、避けて通ってはいけない自分自身の問題と心得るべきと思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2013.11.04 18:21:40
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