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カテゴリ:ちょっと思うこと
私は、来年には60歳になるのだが、Web上でのblogの書き込み方などで、幾度も失敗して来たと感じている。
ある方のblogで、ある方が書いていましたがxxxさんも、YYYさんも、表現の仕方は異なりますが言っている内容は同じです。 というような、それぞれをフォローをしたような文を見たことがありますが、私は、語調や言い回しが違えば言っている意味が例え同じでも、違う結果を生むと断言します。言葉は決してエッセンスだけを届ける性能を持っていません。言葉は僅かに違っただけでも刃物ともなり得るものだと理解しています。 そして、あることに気付きました。 自分と異なる意見や思想を持つ方は非常に多いし、自分から見ると、間違った解釈や偏った解釈をしているな・・・と感じる様な記述も大変多いものだ。 そうしたときに、Web上であるという若干の特殊性(現実の関係ではないような錯覚)から、それを書いた相手の心情を充分に思い計ることを軽んじた言い回しで反対意見などを書いてしまうと、書かれた方は、攻撃されているように感じるだろうし、そのblogを閲覧している多くの人前で公然と非を指摘するようなことになってしまうものだ。 何気なく正直に思いのたけを書いたものでも、縁もゆかりも無い、Web上の多数の人のうちの一人であったとしても、それぞれに人には自尊心があり、自分を否定されるような書き込みがあれば、やはり心穏やかでは済まず、人によってはその指摘が正しい指摘であるかよりも、自分の面子の為に反応してしまうことも少なく無いだろう。 私はどうだろうか?と考えてみるのだが、何度でも意見の交換は厭うものではないが、言葉の使い方を知らないような方とは、正直なところ係わりあいたくなくなってしまう。 無礼な言葉や、人を誹謗するような言葉を使われれば、流石に嫌気が差して話す意味を感じなくなってしまうわけだ。 たとえどんなにキツイ内容でも言葉を選んで丁寧に話すのが他人と係わりあう上で最低限必要な礼儀と思う。 私を含め、殆どの人は日々移り変わって行くものだし、考え方も、見解なども、新たな情報や知識によって変わっていって普通だから、自分の考えも徐々に変わっていくのが当然だと思っている。 新たな知識によって今までの自分の考えが誤りであったと気付けば、意地など全くはらずにその場で自分を改めることに躊躇は無いのです。 問題は、人によってはその人の知識が足りずに思い違いしていたりすると、その人間の全人格を責めたりする人が居ることではないかと思う。 私が気付いたことというのは、人と語り、違った意見を持っている時などに、それを語り合う相手に指摘して、違うのではないか?という時の言い方は、「貴方はおかしい」とか決して言わずに、その部分の貴方の解釈の仕方は・・・とか、貴方がそう考えた原因には事実の誤認などがありはしないか?というように、人格否定的な言葉を使わないで、異なる考え方の基になっている事柄の解釈や正確な事実関係を提示して理解を求めることが賢明な方法ではないかということになる。 原因はその人の個人的な生い立ちに由来する性格にあると思えることも大いにあることは有るのだが、そう言ってしまうとその人は反射的に防御姿勢をとってしまうことも多いと思うのです。 本当に誤った考えを持っている人が居たとしても、その誤った認識の原因は、殆どが事実の誤認であったり、知識の不足から来る思い込みなどが原因なのであり、充分正しいとその人が思えるような情報を伝えることに努力し、その人の人格を攻撃してはならず、又、正確な知識が無いことも責めるべきでも無いと思うわけです。 いうなれば、貴方の意見はもしかしたら貴方に正確な情報が届いていなかったことで、そのような結論にならざるを得なかった。ということでは有りませんか? という心持で異なる意見を持つ方に接することが失敗を減らすことになると考えるようになりました。 同じアジア人同士で嫌い合うことなども、当に互いを正しく知らないことがその原因であると言えると思っています・・・。 無知であることが最も罪なことといえるでしょうし、正しく伝えない国家は正しい国家ではありません。 このことは・・昔から言う「罪を憎んで人を憎まず」と言うことと殆ど同義なのかも知れませんね・・・・・・・。 尤も人を攻撃して勝利することに快感を感じているような方には全く意味の無いお話ですが・・・・・・・・笑。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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