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カテゴリ:ちょっと思うこと
当たり前のことを言うが、私は最も身近な人でもその人のことを100%知ることはできないし、その人も絶えず変化しているから、その人が何かに反応して行動する方向性をすべてを予言することなど不可能であろう。
しかるに、何処かの誰かを信頼するという事はどういうことを示すのだろうか? 自分を含め、人間は、決して他人のすべてを知ることなど不可能なことは解っていただけていると思うが、ある人を信頼しているという事は、その人の人間性や思考傾向から、その人が未来に起きる事象にどう反応するか予測できる範囲にあると考える行為と言えるかもしれない。 つまり、他人をすべて知ることはできないのは当然だが、その人のいくつかの言動や行動、物事に対する反応の仕方を知れば、その他の事象に対しどのような反応を示すかがおよそ解るという事であり、それは類推という脳機能の出した未来予測に基づくものであろう。 以前・・・、今年の2月のBlog「自分以外に確実に存在するのはエネルギーと情報だけである・・・。 」に書いたことにも通じることだが、人は相手が誰であるかはほぼ問題ではなく、その人の纏っている背景と、その影響力や属性がもたらす自己との現実的関係性が相互利益という点で重要であり、その人らしい反応で自分の利益をないがしろにしない姿勢を継続することを希望する時、「あなたを信用する」と言って、その人に何らかの利益を与えることを許容し、自分への利益を確保することを目的とした結論を持つに至るのだろう。 だが、そんな場合の「信用する」という言葉は往々にして信用などしないという事の裏返しであり、「信用する」という発言は、「私を裏切って、私に蔑まれないようにすべし」と、くぎを刺す言葉を言っているようなものに違いない・・・。 信頼とは、約束とは違って具体的事柄の履行を促す制約力はなく、一方的な希望的予測でしかないと言えるのではないだろうか? 要するに、ただの自分勝手な「思い込み」と言えないこともないのだ・・・。(だから、信用されることに価値がない、とかいう問題ではないので、誤解しませんように・・。) メルセデスやフォルクスワーゲンへの信頼感がなくなったとしてもそれはそれで当然かもしれないのは、その行為が過失ではなく、自己の利益の為に顧客だけでなく同じ時代を生きる人類全てを嘘で欺くという行為だからである。 特に今回のダイムラーの不正で言えば、信頼という一方的な希望的予測が崩壊した瞬間であるが、メルセデスの車を選ぶ人の中でも、それによりステータス誇示したい人には、価格が高いことを大勢が知ってくれていればそれで良かっただけかもしれないから、信頼感など・・・どうでも良いことかもしれないが・・・。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2018.06.17 00:45:22
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