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カテゴリ:ちょっと思うこと
私はかねてより、自己の生存のためと言って、栄養源として他の生物を食べてしまう事に伴う他生物への攻撃性を人間はいつの日にか止めるべきであると考えている。
しかしながら、私は決してヴィーガン(菜食主義者)になるつもりは無い人間でもある。 他の生物の命を奪ったり、傷つけながら・・・、摂食と言うやむを得ない理由の為に食事を止めることが出来ない人間は、やがて完全に合成や培養の技術によって食物を得られるようになるはずだから、それが当たり前になった時、他の生物の命を奪う食事をすることは避けるべきと言う風に常識は変化して行くことになるだろう。 そんな私が、何故今ヴィーガンになろうと決して思わないか?と言うことに答えるなら、いくつかの理由を挙げる事が出来るのだが、大きな理由の一つには、今私が食事を植物食に替えたとしても、それは単なる身勝手な自己満足にしかならないと感じていることがあるからでです。 その訳は、動物も植物も、生き続けたいと願う生物として考えれば全くの同格であり、生きるために脳と言う神経組織を発達させた動物は意識と表現力が有るので、死の恐怖で悲鳴を上げることもできる為、より殺すことに呵責を感じているだけであり、植物はそれに比べれば殺される瞬間に断末魔の叫びを上げることがないと言う事で、「単に殺す側の意識として殺しやすいと言うとことに過ぎないから」と言えるからだ。 ヴィーガンとして生きることを選ぶ人達を、取り立てて責めるつもりはないが、私はそのように生きようとする人たちに言ってあげたい事があります。 植物なら食べても罪を感じないと言うのは、あなた方の身勝手、或いは勘違いの思い込みであり、植物も健康に生き続けたい事には全く変わりが無いもので、ただ人間の目や耳に彼らの悲鳴が聞こえない、或いは見えないだけなのです。 最近の研究ではトマトは昆虫に葉などを食べられた時、危険を知らせるガスを生産し、近隣のトマトに知らせ、更に多数のトマトが協力したかのように、昆虫を撃退する有毒ガスを一斉に放ち、辺りにいる昆虫を皆殺しにすることがあるそうです。 動物と全く同じように彼らは彼らなりに自分を守り、仲間を守る生物なのです。 だから、あなた方が感じているであろう、植物なら食べても良いと言う感覚は、あなた方の無知による勝手な思い込みの産物であると断言します。 植物も動物と全く同格な地球生物で、傷つけられることも殺されることも決してされたくない生物の仲間なのです。 植物には声を出す器官が無く、言葉を紡ぐ脳が無いだけです。 つまり、植物のように他の生物に全く依存せずに生きる仕組みを持たない生物である動物や人間は、自己の存在を否定しないのであれば、他の生物を摂食することでしか生きることが出来ないと言う真実を受け入れなくてはならないのです。 それを否定するなら直ちに死ぬしかないと言う事です。 だから私の眼には、ヴィーガンの方々が植物だけを食べていると言う事で何かから精神的に逃れている様を見ていると、生まれながら脳を持たないただ生存できる仕組みを持って生まれてしまった無脳症の人間なら、殺して食べてしまっても良いと言っているのと何ら変わりはないと言う風に思えて来ます。 あなた方ヴィーガンの、植物なら殺しても良く、動物は殺したくないと言う感覚は、身勝手極まりない偏見と欺瞞的思考の結果だから、もっと深く考えて、真実を謙虚に受け止め、全ての食べられる物質を心置きなくお食べなさいと私は言います。 その上で、肉や魚を食べたくないのであれば「好きでないから食べない」と言うべきと思います。 動物を食べない事を「正しい事」などと考えては間違いです。植物なら食べても罪が無いと考えるのも貴方の勝手な思い込みです。 言うなれば・・・、どちらも罪深いと言えば罪深いのですが、それでしか生きることが出来ないと言う動物の宿命的限界を考えれば、どちらも罪ではないと言って良いものです。 糾弾されるべきは、生きる為に必要な食べ物を得る目的以外の、趣味として殺戮をするハンティングです。食べずに殺してしまうだけの魚釣りです。 ハンティングは人間に備わった狩猟本能ですが、それは抑制して生きるべきと私は思います。 と、ここまではいつも思っていることで、別に何も変わっていない自分なのですが、ふ・・・と思ったことがあるのです。 私は論理的な菜食主義が真実に照らしてみれば非合理であると言う主張以前に、美味しいマグロの刺身やシャトウブリアンステーキ、かつ丼、ヤキトリ、ウナギの蒲焼、ハマグリの酒蒸し等々、到底それらを絶つことは出来ないのです。 私の味覚はそれらを止めて菜食に移行することを断固拒否しています。 では・・・、菜食主義に移行できる人は、そんな人間の持つ味覚の誘惑に負けないのか?と言う疑問が、ふ・・・と湧いて来て・・・とても不思議になったのです。 牛や豚の屠殺現場を見てしまった人が肉食が出来なくなってしまうという事はあり得ると解りますが、そういう経験が特にないにもかかわらず、動物食を止め、さらにそれを拡大して、魚介類や動物由来の調味料(鰹節の出汁等)も口に入れないというような飛躍は特定の宗教的洗脳でも受けない限り起き得るものではないように思えるし、動物由来の食物の本当の美味しさを知ってしまった人が、陳列棚に手を伸ばすだけで得られる誘惑に打ち勝ち、その食における快感を捨て去るることが本当に可能なのか? そこで私は・・・はたと気づいたのです・・・。 もしかして・・・、ヴィーガンになれる人って程度の差こそあれ味覚障害があるのかな? 失礼いたしました・・・・・・。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2019.11.30 21:37:23
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