カテゴリ:分類不能系
性同一性障害の友人がいる。と言っても、彼女は結婚しているし、子どももいるし、家庭も円満に行っているようだ。「性同一性障害である」とは、彼女の弁であって、どこから見ても、それほど苦しんでいるようには見えない。
もちろん彼女も、本当の本気で、「性同一性障害」と主張しているワケではないようだ。昨今のように、本人が主張すれば、たいていの場合それが認められるような時代だったら、「自分は性適合手術を受けて、男になっていたかもしれない」と言うのだ。 本当に苦しんでいる人には、申し訳ないような言い方になるが、私たちの年代の女性は、女であることにまだ、かなりの制約がある時代に少女期を経験した。ここ10年くらいで、男女差別はかなり無くなってきたが、それ以前はやはり、「女は女らしく」的な暗黙の圧力が、大人社会から押し寄せて来たし、それをはね除ける力も、私たちの多くは持たなかった。 そういう状況で「女に成長する」ことに、苦痛を感じる人は、私の周囲には多かった。初潮を迎えた時、一生こんなものかとつき合うのかと思うと、死にたくなったと言う友人、かなりの巨乳なのに、ブラジャーをすると精神的に嘔吐を催すと言って、ノーブラでサラシを巻いていた友人…… そういう友人たちも今では、「一生つき合うのかなんて、あんた、そのうちアガっちゃったら、更年期障害よー」とか、「ブラジャーつけなかったから、垂れるの早いのかなぁ」とか笑い飛ばす、逞しい「負け犬」組となっているが。 で、件の「性同一性障害」の友人であるが、彼女も毎月一度、脚の間から出血すること、胸や腰に肉が満ちて、地面につなぎ止められるような、重い体になって行くことに、激しい嫌悪感を感じ、拒食に陥った時代もあった。でも今は、優しい(そしてちょっと優柔不断な)ダンナと、素直で元気な(ちょっと成績は悪い)子どもたちと、幸せに暮らしている。 そんな彼女が言うのは、今のように性同一性障害を安易に認めてしまうのは、良いこととは思えない、ということだ。確かに、本当に苦しんでいる人に、「どこまで我慢できるか、やってみろ」と言うのはコクだ。が、思春期の心の揺れや、子供時代が終わるのに対する漠然とした恐れから、「私はオンナなんかじゃない」と否定するケースを、「それは性同一性障害です」と認めてしまうのでは、人生を誤るのではないか、と言うのだ。 肉体の性と、脳が自己認識している性がズレるということの苦しみを、私はあまり良く分からない。でも、かつてオンナであることに、ものすごい制約を感じた世代としてみれば、何でもかんでも性同一性障害、と言うのは、確かにちょっと恐い。 私程度に「女性性の否定」をしたに過ぎない人間でも、今みたいな大っぴらな時代に育っていたら、「私、性同一性障害かも」「いや、そうに違いない」と言う方向に行っていたかもしれない。 何だか良く分からない話になってしまったけれど、そういう自己否定も、自分にとっては百害あって一利なし、かもしれない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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