Nの死
12月末、大学山岳部の先輩Nが死んだ。去年の8月くらいに、いつものように夕方電話がかかってきて、今から会えないか、ということだった… が、何かいつもと違って、声が少々遠慮気味だった。で、ちょっと仕事を抜け出して一緒に飯を食うことになった。Nはこういう時、殆ど肴を食わずにただ酒を飲む。今度も例によって酒を飲むのかと思ったら、俺はいい、と言う。店に入って酒も飲まない、飯も食わないと言うわけにも行くまい、ビールを頼み、乾杯して話を聞くと、1ヵ月半くらい入院していて、退院してきたところだと言う。やはり肝臓だった。…どうやら酒は医者から禁じられていたようだ。失敗だった。でも、Nはこういう時飯を食わない男なのだ。致し方ない。Nも少しくらいなら大丈夫だと言うので、様子を見つつそのまま飲ませた。今回ばかりはよほど懲りたらしい。あまり飲まない。こちらも奨めない。一時期、ひどく飲んだくれていた。よく強引に一晩中飲みに付き合わされた。Nはプライドの高い男だった… 男はみなそういうものではある。奥さんはキャリアウーマンで、Nは建築家だった。自宅で建築事務所を開いていたが、純粋で、世渡りの不器用な彼は、バブル崩壊後の不況とともに金になる仕事を失い、理想を追い求めて貧乏をしていた。勿論、奥さんはキャリアウーマンだから家族が生活に窮することは無かったろう。だが、奥さんに養われるというのはNのプライドが許さなかったのだろう。で、現実とのギャップは大きく、Nは酒に溺れることになった。あちこちの友人知人から、かなりの借金を重ねていたらしい。俺も小金を貸していた…いや、帰ってくる見込みはン十年は無かろうから、投資だと思っている、と言って借用書ももらわずにただ金を振り込んだ。その後、"N先輩"は俺に対してなんだか少し卑屈になってしまった気がした。時々会う時に、飲みに付き合え、と言うのではなく、『報告するから』、と言うようになった。それまでは割り勘だったが、利息の代わりに、と全部出してくれるようになった、いや、俺がそのことばに甘えた。当然のようにそれを期待するようになった。俺の方が少し傲慢になっていたのだろう。その日、Nは俺にこう言った。「俺、もう離婚するんだ。今度は本当に。もう話がついている。」「俺、死ぬかもしれない。」その声は怖れに震えていた。当時俺は仕事で失敗して、意気消沈していた。その日もブルーだった。こういう時、なまじ慰めたり励ましたりする事は逆効果だ。だから、ただブルーな気分を二人で共有して、そのまま別れた。飲食代はNが払った。「…じゃあ、またな。」何か話し足りなさそうな感じで、最後に彼は言った。本当はもっと俺に相談したい事があったのではなかろうか。俺が人の相談に乗れるような余裕や気力を持っていないのを見て、遠慮したのではなかろうか。そんな、中途半端さを感じていたが、そのまま俺は仕事に戻った。そして、半年以上、Nの事は忘れていた。それが、Nの肉声を聞いた最後になった… 2そのことを知ったのは、両親とスキー旅行に出て、目的地の宿に着いたときだった。携帯の着信音が鳴り、画面を見ると山岳部の後輩Sだった。「よお、ご無沙汰、珍しいじゃん。どうしたの?」「お久しぶりです。Kさん、Nさんが死んだの知っていますか」SはNの高校山岳部の後輩でもあり(と言っても、学年は8年ばかり離れている)、Nが酒に溺れていた頃、いつも俺とともに呼び出されて付き合わされた奴である。Nが5年生のときの1年生が俺、その俺が4年生のときの1年生がSである。Nと俺は1浪しているがSは"現役"だったので、NとSとは8学年違う計算なのだ。Nは早生まれ、俺は4月生まれ、Sはたしか夏生まれなので、大体丁度俺はNとSとの中間である。なぜこの二人の間に入るのが、全く高校も異なる俺だったのか、よく分からない。Nは飲んだくれであり、Sは少々お調子者である。俺は普通すぎる、と思っていたが、彼らから見れば俺はある意味極端な人間だったかも知れぬ。何がどう、と説明するのは難しい。俺は俺としてみれば極めて普通な人間だからだ。その夜から俺は3晩の間、両親が寝静まった後、Nのことを想い、独りで泣いていた。何故そんなに早く死んでしまったのか。あの時、『死ぬかもしれない』と言っていたのに、何故俺は忘れてしまったのか。何故『俺はもう離婚する』『死ぬかもしれない、怖い』と言ったNの悲しみと孤独を忘れてしまったのか。あの時、確かに俺はブルーだった。鬱病だった、とも言えるだろう。鬱病の人間は、他人への思慮が及ばない。自分のことだけで精一杯で、他人の気持ちを汲み取れない。だから、Nの助けを求める声を聞き逃した。それが悲しかった。いや、それ以上に、Nという人間を失ったこと自体が、俺に悲しみをもたらした。もうあの声を聞けない。あの笑い声を聞けない。あの酒に酔って絡んでくる鬱陶しいけど人間くさくて温かい存在は、もはやこの世からは連れ去られてしまったのだ。悲しみの合間に、Nに貸した金は永久に返ってこない。そんなことを頭の片隅で考えている自分が哀しかった。暫らくして、Nに生きているうちに小金を渡せたのだ、と気付き、良かったと思えるようになった。それで、俺も自分の醜さから救われた。Nの葬儀は身内だけで行われた。49日が過ぎる頃、Nの高校同級生と大学の山岳部の有志で、Nを偲ぶ会、というものを執り行なった。60名を超える人間が集まった。盛会だった、ということばを使うべきなのだろうか。もう涙は出なかった。