豊ちゃん、早いよぅ!
私が、豊ちゃんという存在を認識したのは小学校1年生のころである。その時、豊ちゃんは6年生で、毎日の集団登校では、マイペースで先頭を歩いていた。そのため最後尾の私はいつも置いて行かれた。弟の私のことなど気にする性格ではないのだ。重いランドセルを背負って、いつも小走りに追いかけて行った記憶がある。私はまだ小さくて遅いのだから『豊ちゃん、早いよぅ!』と言いたかったものだ。私は5つ上の兄のことを、当時からずーっと豊ちゃんと呼んでいた。休日は、我が家から20分ほどの湖に、よく釣りに行った。豊ちゃんら上級生は自転車で、私は乗れないので走ってついていく。一緒に遊んでもらえるのだから、『待ってよぅ、早いよぅ』とは言えなかった。その頃からいつもあとを追いかけていたようだった。中学になると豊ちゃんは柔道部に入った。その5年後、私も中学で柔道を始めた。豊ちゃんは高校でも柔道部だった。ある時、中学校の帰りに門を出ると、自転車で帰る途中の豊ちゃんに出くわした。よし、自転車で家まで競争しようぜ!小さいころから負け続けていた豊ちゃんに勝負を挑んだ。およそ4キロの登りの道のりだが、いつも走ってついて行ったので脚力には自信がある。よーい、どん!すると、みるみる間に豊ちゃんが小さくなっていく。後ろを振り返ることもなく、すいすい漕いで行ってしまった。『ちっきしょー、早えよ!』心の中で叫んだ。私が二十歳くらいのころは、よくふたりでスキーに行った。リフトを降りると、勝手に一人で直滑降で滑り下りていく。『もっとスキーを楽しもうぜ。何をそんなに急いでいるんだよぅ』何度言っても聞きいれてくれなかった。そんなに直滑降が好きなのかと聞くと、そうでもないと言う。やがて、お互い家庭を持つようになって、ふたりで遊ぶことはなくなった。時々酒を酌み交わすことはあったけど、酔ってすぐ眠ってしまう性分だった。『酔うの早えーよ、まだ寝るなよ』いつでもマイペースだ。そんな豊ちゃんが57歳の時、病気が見つかった。仕事を辞め、自宅で療養するようになった。だんだん病状が悪化して、入院することになる。コロナと相まってお見舞いに行くこともできなかった。先日、悪い知らせが届いた。今、大きな声で叫びたい。『豊ちゃんのばかやろー!早いよぅ!!』