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テーマ:中学生ママの日記(17695)
カテゴリ:子供にまつわるあれこれ
太郎の通う地元の公立中学は、普段、体育の授業があるなしに関わらず体操服での通学が認められている。
式典や定期考査のある日だけ、学生服を着ればよいのだ。 これは親にとっても非常にありがたいことだと思う。 なにしろ、毎日ジャブジャブ洗って常に清潔なものを着せられるし、成長してサイズが合わなくなっても、制服を新調することに比べると、うんと少ない出費で新しいのを買うことができる。 ところでここ数年のうちに、ズボンを下げてはく、いわゆる「腰パン」が全国的に大流行して、ファッションとしてのブームが収束したといわれる現在も、中高生の間では制服のズボンやジャージを下げてはくのが一般的になってきているらしい。 ズボンを下げてはくのは、元々はサガー(sag=「裾が垂れ下がる」が語源らしい)といって、アメリカでサイズの合わない囚人服を無理矢理着せられた黒人系やヒスパニック系の囚人たちの服装が反体制のシンボリックな存在になり、後にヒップホップのファッションとして流行したものらしいが、日本の中高生の制服やジャージの「腰パン」は、ヒップホップのニオイなどしないし、たぶんそういう思想や主義あってのものではない。 ただ、流行していて、みんながそういう風にはくからそうするうちに、目が慣れてしまって、普通にはくのがかっこ悪く感じてしまう、それだけの理由だろう。 そういうわけで太郎の学校の男子達も、馬鹿馬鹿しく必要以上にジャージのズボンを下げてはくのが当たり前になっているらしい。 中には、裾の長さをもっと長く見せるために、わざと女子用(丈が長めで横幅が細め)を買ってはいている男子もいるほどだという。 ところが、だ。 太郎は身長165センチほどで、身長はまぁあまり大きいほうではないという程度なのだが、体重が36キロしかなく、「骨が邪魔してこれ以上は痩せられません」という具合のへなちょこぶり。 当然、腰も恐ろしく細い。 そして骨盤の出っ張りも、もちろんほとんどないのだ。 「腰パン」というのは、そもそも、ウエストの一番細い部分よりもぐっと下げて、腰骨の下のあたりか、もっとひどいのはお尻の肉で止めてはくのであって、骨盤もお尻の肉もさっぱり見当たらない太郎は、物理的にどうやっても腰パンなんてできようはずもない。 しかも本人は「腰で止めるようにできているものをわざわざ下げる意味が分からん。しかも気持ち悪いし。」と、入学以来ずっと『アンチ腰パン』(笑)の構えを見せている。 (いや、要するに普通にズボンをはいている、というだけのことなのだが。) クラスのおせっかいな女子や、自分の腰パンの裾の長さに妙な自信を持っている男子からは「太郎、ズボンもっと長くしろよ」といわれたりすることもあるらしいが、本人は「あんな気持ち悪いはき方してたら、ウエストのゴムの位置の気持ち悪さばっかし気になって、やってられん。」と、気にもしていない様子だった。 なにより、ヤツは学校にいるときも忙しすぎて(今年から部活の部長になった)、ズボンのずらし具合なんてわけの分からんことに心を砕いている暇などないのだった。 だが最近、3年生の知らない男子生徒に「お前、なんでそんな短いズボンなん?かっこ悪いぞ。」とからかわれて、大勢の前で笑われたらしい。 (短い、といっても、普通にはいているハーフパンツだから、膝の辺りに裾があるのであって、わざと下げてはいている、膝下10センチとか15センチとかいうハーフパンツのほうが「長くてヘン」だと思うのだが。) 太郎の学校は、昔のような上級生下級生の変な上下関係は全くなくて、3年生に何か言われたからといってビビる必要は全くないし、その3年生も大した意図もなくちょっとからかってみただけだと私は感じているのだが、太郎は知らない人から「かっこ悪い」といわれたことが少しショックだったらしい。 そんな、通りすがりの通行人みたいなヤツから言われたことをいちいち気にする太郎もアホだが、この時期、知らない下級生のズボンの丈をからかっている3年生の将来も、まぁ言っちゃなんだが、知れたものだと思う。 「みんなと同じように崩して着る」ことが、そんなに大事なのかなぁと、少し不思議に感じる。 私たちの学生時代も、制服を崩して着るのはもちろんあったが、だからといって、普通に着ている子をからかうようなことは無かったように思う。 そしてなにより、当たり前のものを当たり前にしていることがからかわれて居心地の悪い思いをしていて、モラルに反していることのほうは非常に甘い見方をされていることに、少し憤りも感じる。 昔は、モラルに反している者は、反しているという自覚と覚悟がどこかにあった気がするのだ。 だが今は違う。 モラルに反していようが、常識を大きく逸脱していようが、「自由」とか「権利」とかを振りかざして、すぐに自分たちを正当化してしまう。 太郎や花子は、親の私から見ても、真面目な子供達に育ってくれていると思う。 だから、これからの「やったもん勝ち・言ったもん勝ち」の社会では、憤慨する場面もたくさんあるのだろう。 でも、「きちんとしていることは美しいのだ」ということだけは、どんなに腹立たしくても忘れないでいて欲しいと、母は心からそう思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007年01月30日 16時07分31秒
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