琵琶と朗読の構成の「稚児が坂」伝説(栃木県)
こんにちは・・・イベント自粛はなんとなく元気なくなりますが・・しょうがないです。インターネット利用の色々な、自習応援、素晴らしいですね。無料で配信した企業様、やはり凄い。人が集まるから需要がある「芸:文化:町つくり:あ~お商売も」。でもこのまま行くと???わかりませんが・・経済への影響ですよね。応援とか「明るく元気」にするとか、個人でも何とかできないのかな??とは思いますが・・音声が「琵琶」だから・・・音楽だって意欲が低下するのが一番苦しい・・ですものね・・今の状況で何ができるんだろう・・集まらなくても社会を明るくできる方法?やはりインターネットかしらん?文字なら比較的方法あるような??さ~~私は「音声」だから・・かのフェースブックも良く見てると「文字と映像」。映像を取り込めない「私」からすれば「映像は素晴らしい」♪季節は「春」お花がでてくると「拍手」♪文字が主流の個人?では、応援に参加も、しようがないような??あ~~相手がどうゆう人か解るなら「いいね」をクリックかな?音声と映像では、ユーチューブ。でもな~好みになりますが音が??・・年末からお正月、問い合わせやらで「頭が琵琶のうちに、作詞の原案は5曲」作りました・・でもな~~演奏は??? というわけで、公開します。伝説の場合、民話調は薩摩琵琶には「どうも??」で、そうすると「下記」のような、時代考証?文化?を調べて「創作」箇所加えるしか「ない」ような???「朗読」を入れたのは「地元の琵琶など聞いた事のないお客様」むけに「わかりやすくする」工夫です(そのつもり)ただ「まだ作譜途中なので」「持ち時間により、どんどん?短くなります」。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 「稚児ケ坂」~~~源頼朝の歴史の陰に咲く村人のやさしさのお話~~ 令和2年正月吉日 原案作詩 森山遊英 (朗読)旧河内町に「稚児ケ坂」といわれる、伝説があります。 白沢宿に向かう白沢街道の坂にまつわるお話です。頃は鎌倉・源頼朝の時代。奥州合戦の翌年、伊沢家景(いざわいえかげ)という武士が奥州総奉行の役に任ぜられました。この伊沢家景は、文筆に優れ、北条時政に見出され頼朝に仕えました。関東地方の武士は坂東武士と呼ばれ、「弓矢、乗馬にすぐれ、強い武士でした」が、家景は戦い以外の担当者のようです。当時の教養は、漢文や和歌ですから、大変に文化的で知的な人だったのかもしれません。鎌倉から下野に、そして奥州に向かいます。宇都宮に入り、ここ河内町の「坂」で、男の子が熱をだします。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ (琵琶)頃は、1190年 奥州総奉行に 伊澤家景 命ぜらる 下野・宇都宮より北は 別世界、春は遅く 冬厳しき国 伊澤家景思うよう 「命ぜらるれば 如何なる時も所へも すぐさま 向かうが鎌倉武士の定め。なれど 厳しき土地に、妻子伴い行くは、心に暗雲わくが如し。されど、行かねばならぬ、我は鎌倉殿に仕える鎌倉殿の御家人なり、御恩に報いるは今ぞ。」 心の迷い 誰にも話さず 家の子郎党ひきつれ 旅立つ。 鎌倉街道 中路(なかつみち)、進めば武蔵の国、下野の国。鎌倉殿の奥州合戦の道を行く。はや 鎌倉の山、箱根の山 後にして 馬にゆられ 川 幾たびも越え 土ほこりたてて 進みゆく。夜は 薄きしとねに 粗末な仮の宿。雨にぬれ、日差し厳しきなか、竹の筒の水が命つなぐ。大河渡るは われら 坂東武者なれば なんのこれしき 戦に比べれば 遊ぶが如し。されど 幼き者には 如何ならん、蝶に花に人形に戯れ遊びたきが 桜姫。 かくれんぼ 竹馬 独楽 に竹トンボ 遊び 眠るが 菊丸。むずかる子等は、怒られて、 あるは 抱きあげられ あるは 馬にのせられる ほほえましき事なれど 旅路の空は 無常の日々 鎌倉殿はかの奥州合戦の時、この道を通り 奥州に向かいたまう 我らも同じ戦の心意気なれど、女子供も同道なれば 急げども ゆるやかに進む 下野に入り 宇都宮より 奥大道 すすむ頃 子等の疲れ 著しく なりぬ。そのなかで菊丸 熱を出す。 すわ~~若君の一大事!隊列止め 村人のいぶせき藁家の一間借り あれこれ手当てす。村人優しく 冷たき水くみ あれやこれや世話になるぞ ありがたき 幼き者ノ苦しむをみるは 苦し。「南無や箱根大権現 鎌倉殿の御為の旅路なり。幼き者も まごうかたなき 御供なれば 助けたまえ 助けたまえ」 精進潔斎し 祈り奉る ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ (朗読)村人は、この幼い病人のため、急な宿を提供し、なにくれなく世話をやきます。 ですが、幼い子は、この地で短い一生をとじます。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ (琵琶)あわれや 幼き命 露と消えぬ(泣きすがる妻の姿あわれ 武士の妻なれば 人前にて涙流さぬものぞとなだめども 旅路の途中 野末の石の袂に 供養するぞ いと哀し。供養すら 跡取りの者なるに 粗末とは・・と愚痴聞くは やるせなし) 鎌倉武士の嫡男なれば、奥州向かうに、くやしかろう とて、小高き眺望ひらけし所に供養す 村人 共に野の花供え 幼き子にと 饅頭備え 祈りくれ 嬉し 奥州総奉行、その任重く 私事なる 嫡男がことで 出立遅らせるは 不忠なり (ゆるせよ 幼き者よ) 必ずや 迎えにくるぞ。それまで この優しき地にて、鬼怒川はるか奥州眺め 遊びたまえ いざや~ はやはや 急ぐべし 後ろ髪ひかれども これも我が一族の運命なり 我が嫡男 礎となり われら一族みまもらん ござんなれ奥州 この悲しみこえ 御役目 無事これ はたそうぞ 戦さにあらずとも 敵はわがひるむ心 遅れとりもどし いでや奥州めざそうぞ 振り返りふりかえり進みゆく この坂は いでや別れの 旅路とは 知るやしらずや 南無地蔵尊 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ (朗読)家景一行が奥州に向かったあと、村人は供養のため、地蔵堂をたて、父母から引き離された幼い子がさびしくないようにと念じました。それから誰いうとなく、この街道ノ坂を「稚児ケ坂」とよぶようになった・・という伝説です。 伊沢家景は、いわば 東北地方の行政の長官。宮城県岩切に岩切城を築城。塩釜神社の神主でもありました。その後 子供に恵まれ その子は「家元」となのり、その頃から「役職名」の「陸奥留守職(むつるすしき)」の「るす」を なのり「留守氏」を継承。戦国時代も「留守氏」は生き抜き、その後仙台藩の伊達氏より養子を迎え、伊達氏の一門として江戸時代まで存続。東北の地に、留守一族は生き抜きました。 「稚児ケ坂」は、現在「稚ケ坂(ちがさか)」と呼ばれ、バス停にも名を残します。両側は桜並木。白沢宿に入る「白沢地蔵堂」には菊丸の墓だといわれる五輪塔の供養碑があります。 この当時 朝廷と幕府という二重に年貢をとられていた農民。想像ですが、自分達が生きるだけで精一杯の生活のなかで、身分にこだわらず、人間性を失わない、たくましく生きた 農村に生きる人の様子 が目に浮かぶ伝説ではないでしょうか。また鎌倉から来て東北を治めた伊沢氏にとり、下野のこの村人の優しさが何より心の支えであり、救いになったと思います。 ・・・・・・・・・・・調べた事、疑問におもった事、わからない事。メモ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ *どんなルート?鎌倉~宇都宮~奥州 頼朝の奥州合戦の時のルートと同じとした。頼朝:本隊は「鎌倉街道 中の道~宇都宮~今の東北新幹線?「奥大道」か? *乗り物は?・・中世の交通手段「徒歩、馬、輿」・・疑問が「輿」1186年将軍頼家がのった、室町時代に「輿の規則?」作った?・・1190年代まだ「一般的にはならないか??」守護、守護代は「輿」のった?奥州合戦1189年7月19日:矢を持った部隊(徒歩)50名、鋤や鍬を持った部隊(徒歩)30名、馬3頭(従者が轡をひく)おもな家来数人(騎馬)、大将(騎馬)廻りに徒歩の従者数人、武将(騎馬)と従者数千人:合計数千人:二十八万人 *伊沢家景・・・インターネット情報より・・・留守氏・ *病気の手当て・・・まだ「加持祈祷」の世界か?薬草くらいはあるだろうけれど・ 病気の原因・・生水かもね・・ *どんな旅行?・・男性御供は「関東武士」だから・・戦いの行軍みたいなもの・・関東武士は「騎馬」上手 身分低い人は「徒歩」荷物持つ人もいたろうな~頼朝の奥州征伐を真似すれば、鍬鋤の農耕具持つ部隊いたしね。 女性子供・・同道だろうから・・徒歩と馬かな?馬の場合「人が轡をとり引く」 女性でも馬にはのれる。衣装は「中世の小袖+笠」 男性は「ひたたれ」 *どんな食べ物・・最低限持参で、あとは宿場で購入かな?基本は野菜だろうな・・鎌倉は海あるから「干し魚」も持参かな?味噌(いつ頃?小田信長の頃はあつた?)塩・酢・ひえ・あわ・里いも・豆かな?東日本「米作」の発達は遅い、畑中心 中世武士ノ食事:絵巻き物:おぶすまさぶろう絵巻き・・鎌倉時代元寇の頃「朝夕2回:,主食 玄米、うちアワビ、クラゲ、梅干し、塩,酢、」 *持ち物・・・・・基本は最低限の衣食だと思うな~ *お金・・・・・・1187年に北条時政にひきたてられ、それから3年後の話だから、貯金あるよね・・高級事務次官みたいな役職だから「かなり裕福」文筆に優れている・・武士としては「経済感覚」あるともとれる。出発に多額のお金使っても、奥州につけば「地下管領権」もあるし、観農(農作業の指導)も行うし、神主でもあるし、投下資本回収できる事は「知ってる」はず。如何に優秀な部下を雇うか・・これも解ってるはずだから・・部下に惨めな思いさせるケチンボではないと思う。 *宇都宮氏と同族。藤原光頼に仕え、頼朝、頼家、実朝の三代につかえる。1221年10月29日没 *大河内・・・奥州藤原氏の家来の反乱 *余目氏旧記(あまるめし きゅうき)留守家旧記・・という古文書あり *武士=半農・・農業の繁忙期を避け戦する・・のが常套手段・・だが頼朝は7月~9月・・だから奥州勢は武士を集められなかった。頼朝は裕福な武士団多く集められた。らしい。坂東武士:は弓矢馬が上手い:武芸中心、貴族的な知的な面は低い。 *いでや・・感動詞いで+間投助詞 や・・・意味「いやもう」 *いざや・・ 「さあ~」 *ござんなれ・・ごさんなれ「にこそあるなれ」の転。近世中期以降誤って「ござんなれ」「ごさなれ」になった。・・であるようだな、であるなあ。・・だな・・相手の話やうわさなどを聞き、判断をくだす意を表す。 *2020年3月1日・・現地下見・・電動自転車 約1時間・・環状4号線まで、ベイシアの前の道路、工業団地横切る、・・御幸ヶ原小学校脇の道路(白沢街道の沿道)直進。団地すぎて突き当り「図書館」。図書館でて左折、つきあたりの大きな道路が「白沢街道」右折すると、バス停あり。「稚が坂坂上」過ぎて、直進、二股の所、右、最初の信号、過ぎて、下り坂の「右」が「白沢地蔵尊」。坂の下からくると「白沢宿」のなかの「岡本街道入口」 *疑問・・「稚児か坂」・・白沢街道=奥州街道にある(現在の国道4号線=奥州街道・・は、明治18年より)だから、宇都宮から来ると通る道、でもそこから数百メートル行かないと「白沢宿」には入らない。地蔵堂は、白沢宿内にある・・・離れてる???・・地蔵堂の移動???*あ~あ~白沢宿は家康1600年。白沢宿・・江戸時代・・1843年奥州道中宿村大概帳。白沢・氏家・喜連川・佐久山・大田原・鍋掛・越堀・芦野・白坂・・・白川宿・・11。*白沢:上岡本村の両村の合同で「白沢宿:往還馬継宿」・・「江戸時代」頼朝の時代は、まだすこし寂しいかも・・街道としては存在してたろうけれど・・ *整理:古代の道路・・・東山道(とうざんどう) *鎌倉街道(鎌倉海道?)・・後世の通称:頼朝の奥州合戦1189年7月19日・・鎌倉街道中の道(なかつみち、なかのみち):奥大道(おくだいどう)