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2021.04.20
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カテゴリ:反戦平和

いつも思うのは、ヒロヒト(昭和)が、こういった現実をどこまで、知っていたのか? 知らされていたのか? ということだ。

 

もちろん、そのことによって、ヒロヒトの戦争責任が免罪されることがあってはならない。軍人たちや側近たちに利用されまくったとしても、多くの内外の民衆の凄惨な最期(さいご)を作り出すきっかけとなった、彼の言動は、未来永劫に消え去ることはない・・・この非人間的な原因を作ったのは、戦争を宣言したヒロヒト(昭和)しかいないからだ。

 

天皇という特権階級の頂点に(たまたま)生まれたというのも、運命でもあるし、そのために、その責任を最後までに追及されるのも、運命だと思う。決して、免罪されない(宿命)だということだ。

 

食料の途絶した南方の日本兵たちは、戦争する意欲を失って、ジャングルをさ迷った。赤道直下の太陽が容赦なく全身をこがす中、血を吸う巨大な山ヒルがサラサラとまるで雨のように降ってくる中、恐ろしいマラリア蚊の襲撃をかわしながら、飢えに苦しみ、主食は雑草、木の根、ヘビ、トカゲ、カエル、ネズミ、バッタ、沢ガニ・・・食べられる物は何でも口に入れたという。

 

このような、兵の苦難について、ヒロヒト(昭和)は、おそらく知らされてはいなかったのだろうことは、容易に推察できる。

 

飢えに苦しんで、死んだ友軍の死肉(人肉)を食らったという話は、戦線全域であった。誰にも話してはならない・・・と言いながらも、人間というモノは真実を隠しおおせるものでは無いらしい。

 

今の時代に、天皇制(皇室)を賛美する報道にあふれていることに、大きな違和感を感じてきたが、その翼賛記事に無理解なリベラルたちの言動にも、大いなる違和感を感じてきた。(人権)というなら、まず、その非人間性の頂点にある

(天皇制に異議あり!)と叫んでほしいものだ・・・

 

人生は、一度しか無い。沈黙は、金では無い。後悔、先に立たず・・・

皆さんは、どう思われるか?     (はんぺん)

――――――――――――――――――――――――――――――――

ニューギニア・飢えとの闘い(写真集)(一億人の昭和史 日本の戦争9 1980年毎日新聞刊 p140-199

http://ktymtskz.my.coocan.jp/J/newginia/newginia.htm

 

① 補給が制した戦局


思えば太平洋戦争は海洋を舞台とした要地の争奪戦であった。

 このため終始船舶が中心となり、船なくしては戦いを遂行できない特質を帯びていた。

 そのため占領地への補給線の確保は絶対不可欠となり、逆に敵側からすればわが方の補給線を分断し、前線配備兵力の孤立化を策することは当然の考えであった。

 果たせるかな、連合国側は潜水艦の大量生産と魚雷性能の強化、索敵電波兵器の開発等を急速に実用化し、輸送船を優先目標として攻撃を開始し、接敵地域においてはさらに空軍を増強して、日本軍の補給路を徹底的に妨害する作戦に出てきた。

 

 こうなると補給の万全を期するには制空、制海権を常時維持することが前提となり、つまるところ膨大な戦力か必要となってくる。

 このように海洋作戦における補給行為がいかに困難かつ重要であるか、極言すれば補給に勝った者が戦争をも制することにつながったのである。

 

 当時、陸軍で船舶輸送業務を担当した機関は通称「暁部隊」といわれた船舶専門の部隊で、本拠は広島市宇品港にあった。

 そもそも、この部隊は明治二十八年、台湾補給廠として同地に設置されたのが最初で、その後日露戦争時に陸軍運輸部、太平洋戦争開始直前に船舶輸送司令部と改称され、昭和十七年七月、大幅な編成改正により船舶司令部となって、多岐にわたる船舶業務の遂行にあたった。

 

 しかし、戦争は後半期から完全に連合軍側の一方的ペースとなり、わが方は勝ち運から見放されたが、なお血みどろの輸送が続行された。そのため、各海域において洋上玉砕が現出し、交戦地域向けの船舶輸送にあっては、いつしか特攻への色彩を強め、大型船をもって揚陸地への“ノシ上ゲ”(擱座:かくざ=強行座礁)を敢行するまでに至った

 

 また局地間の輸送に挺進した大発をはじめ機帆船、漁船等小型艇も、ことごとく爆砕撃沈の憂き目をみた。

 このように船舶輸送の末路はあまりにも悲惨で、最終時点では数隻を残すまでに打ち砕かれてしまった事実は“暁”の象徽とは裏腹の暗澹たる悲劇そのものである。

 さて船舶部隊の戦闘経過をみると、開戦から翌十七年一二月、ジャワ島占領までの緒戦期には、上陸作戦はおおむね順調に推移し、輸送船の沈没被害は十八隻(八万三千総トンにとどまった。

 

 このうち沈没第一号となったのは淡路山丸(九七九二総トン(三井船舶所属)で、マレー半島コタバル上陸戦闘時の空爆火災によるものである。

 緒戦以降は占領態勢維持のための作戦が各域で展開されたが、十七年六月のミッドウェー敗退後から連合軍の反攻がはじまり、漸次憂慮すべき事態へと追い込まれていった。

 こうした状況の変化は船舶輸送の上に直接影響し、それに従事する者には、いち早く肌で感じとることができたほどである。

 

② “特攻輸送”の結末

 

 中盤戦に入ってからの主戦場はソロモン、ニューギニア方面であるが、輸送船の沈没がようやく目立ち、本土からの輸送船団も随所で潜水艦に食われるに至った。

 連合軍は反攻にあたり海洋陣地作戦の進め方を熟慮し、わが方の補給作戦を完封しつつ自軍の増強を推進する立体戦を展開した。真に海洋陣地作戦の典型を確実におし進めてきたのである。

 これに対し、海上護衛力の低下する一方のわが方は、死にもの狂いの強行突破輸送をもって対抗したため、多大の損害を披るところとなった。その一例を示す。

 

 ガ島強行輸送作戦では、延べ十七隻の高速船を出撃させたが、ラバウルに帰還したものは二隻に過ぎず、ニューギニアにあってもラエ輸送の困難性が強まる中で実施された五十一師団の輸送は十八年三月三日、八隻船団が全没する悲劇を招いた。

 

172月に就航した秋津丸(9190総トン)飛行甲板のある陸軍の“空母”として建造されたが、191115日、レイテヘ23師団を輸送中沈没。

 

 むろん輸送船にはある程度の武装がほどこされ、船舶砲兵が自衛を担当していたが、圧倒的な襲撃の前には手のほどこしようがなく、敢闘空しく沈没するのが実情で、それだけ要員の損害が多かったことも窺知できるであろう。

 その後の上陸作戦は十九年末のレイテ島オルモックに対する多号作戦であるが、これは逆上陸と呼ばれ、同島への兵員、資材増強を企図するものであった。

 

 すでにこの時点では特攻輸送と称する捨て身の揚陸作戦となり、第九次にわたって輸送船、輸送艦、88艇、機帆船、大発、バンカー(現地民の舟)などが使用されたが、大型船艇の被害についてみると、輸送船では出撃延ベ二十一隻中沈没十六隻、輸送艦では十九隻中七隻、88艇五隻中三隻と激しい損害を示し、その他の船艇にあっても、そのほとんどが失われた。

 

 また一方では潜水輸送艇船“○ゆ”(全長四九・五八、幅四・七メートル、水中排水量三四六トン、潜航深度一〇〇メートル)も出動したが、目的を達することなく撃沈された。

 この目を覆いたくなるような特攻輸送に参加した者は、大部分が散華したので本船の最後の様子は不明のものが多い。

 一方、連合軍かレイテに来攻するまでの間、わが方の戦力を一皮々々はぐような艦船撃滅作戦を展開し、以後本土上陸戦にまで結びつけて実施した成果は特筆に値する。

 

 これを簡単にいえば、在港中の艦船を空襲壊滅することで、これには数群からなる機動部隊をもって実施した。

 その代表的なものかトラック、パラオ両島への大空襲で、その結果わが方は一網打尽の憂き目をみたのである。

 

 トラック島(1921718)平安丸以下三二隻 一九九、〇〇〇総トン、パラオ島(1933031)あまつ丸以下二一隻七九、〇〇〇総トン、次いで九月以降ハルゼー提督指揮軍が来襲し、船舶は大被害を受け戦局は極めて憂慮すべき事態に追い込まれた。

 

 筆者はセブ対岸のオポンでこの強襲をまともに受け、対空戦闘の末、全弾撃ちつくし、ついに沈没したが、グラマン二五〇機からなる大空襲がいかに強烈であるか身をもって休験した。

 この日、虎の子の第一航空艦隊の零戦約七〇機が炎上撃破され、艦船二八隻が沈没、港湾施設、ドックなど甚大な損害を受け輸送機能は完全に停止するに至った。

 空襲の激しさといい頭上を乱舞する二五〇機の威圧感といい、まことに恐るべきものであった。

 

 このように輸送船は空爆により多大の損失を受け、激しい人命の消耗をきたしたが、輸送船にとってはもう一つ、潜水艦の脅威があった。

 冒頭に述べたように、連合軍は新鋭艦を続々と送リこみ、苛烈極まる輸送船攻撃を展開したのである。

このため輸送船団の被害が続出し、前線は漸次崩壊のやむなきに至った。そこで潜水艦探知兵器を一部の船に装備して船舶兵が操作にあたったか、大部分の船は相変わらす肉眼監視で警戒を続行したため、沈没被害は月ごとに増大した。

 

 全期間を通じ輸送船沈没の最高は昭和十九年十月で、実に一三八隻にのぼり、うち六八隻か雷撃によるものであった(米側公表では七一隻)。この月は連合軍潜水艦の出撃数が三五隻にのぽり、最高を記録したので被害の多かったのもうなずける。  

 

 この沈没被害の中で特記すべきものは、十月二十四日、南支那海東沙島東方で襲撃された「春風船団」で、十二隻のうち小型船三隻を除く九隻が相次いで撃沈された。

 この時襲撃した米潜水艦は約五隻とみられるが、その経過は飢えた狼群が小羊に襲いかかるのに似て、反撃のいとまもなかったものと思われる。

 

 ともあれ、戦局を維持するには兵員、資材の必要量を確保し盤石の態勢をとらねばならないが、これか輸送中に海没し予定量か届かねば自信ある戦闘は望むべくもない。そこへ敵が上陸して来たらどうなるか。

 しかし、いくら輸送船団か出撃しても制空、制海権を失った後ではいたずらに沈没を重ねるばかりで、やがては合理性を無視した特攻輸送へ移行するようになる。

 

このように潜水艦の猛威によって次々と血祭りにあげられていったのである。

沈没した船はどれも兵員、資材、あるいは資源を満載したものばかりで、大損害を被ったものの顕著な例ともみられよう。

 

③ 「暁部隊」の苦闘と悲劇

 

 このように輸送船は各所で沈没し陸軍船、海軍船、民間船をあわせ終戦までに二四〇〇余隻、八〇〇万総トンが海底の藻屑と化した。

 そして人的損害は船舶砲兵において一万余、船員が約四万、乗船部隊、便乗者等に至ってははかりしれぬ人命が水漬く屍となった。このほか軍馬・軍犬、戦闘資材等においても膨大な数量が海底に消滅したのである。

 

 なお船舶輸送の中で最も苦労したのが、北方方面への輸送であった。

 敵襲のほかに自然の猛威が立ちふさがり、難渋の度合いは南方の比ではなかった。

 酷寒、暴風雪、流氷、濃霧等を克服してようやく目的が達せられるのであるが、しかしアッツ、キスカヘの突入はどういうわけか途中で護衛が打ち切られ、輸送船単独となって入泊していた。

 このため、ひとたび入泊前に遭難すれば、救助は望めず、空しく凍死する運命に置かれた。 もんとりいる丸、琴平丸、あかかね丸等はこれに該当した船で、一名の生還者もなかった。

 

 今はなきこれら輸送船の中には、とりわけ悲運を伴ったものが少なくない。

捕虜輸送中雷撃され、処置に適切を欠いたとして戦犯に問われた、りすぽん丸、沖縄からの学童疎開中、雷撃を受け多数のか弱い命を散らした対馬丸、緑十字船としての使命を持ちなから台湾海峡で撃沈された阿波丸などは代表的なものといえるであろう。

 

 終わりに船舶兵の最後を飾った特攻艇について述べておこう,

これは綸送とは別個のもので“○レ”または“○ハ”と呼ばれる長さ五・六メートルのベニヤ製高速艇で、両舷に爆雷を装着し、敵艦艇を奇襲するものである。この任務は海上挺進戦隊が担当し、その戦闘はルソン島リンガエン湾および沖縄で敢行され、敵を大混乱に陥れたといわれているが、細部については明らかにされていない。

 

船員も暁部隊の隊員であった。 そして、その損害率は、実に陸海軍を上回る四三%を記録したといわれる。

 思えば船舶輸送の末路は無残の一語に尽きた。各船舶部隊は、それぞれの分担任務の遂行にあたり最大限の苦闘を続け、最終的には特攻をもって頑張ったが、ついにその努力は空しく、多くの“墓標なき戦死者”を生んだのである。






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最終更新日  2021.04.20 00:00:11
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