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2021.04.22
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カテゴリ:反戦平和

圧倒的多数の日本兵が餓死した。こんな戦争を始めた指導者たちが、戦争責任を回避するという、ありえない行動が、あの東京裁判で明らかになった。

 

「東京裁判は、勝者の裁判で、認められない」と、よく右翼の人たちが言うが、戦争責任を回避するための方便、(ありえない戦争の正当性)を主張するための方便であり、断じて許すことはできない。

 

一発の弾を打つことも無く、餓死した多くの日本兵たち、B-29の絨毯爆撃下で逃げまどい、焼き殺された内地の人々の怨念は、決して消すことのできない(事実)だ。

彼ら、彼女らの(恨み)を、戦争指導者のトップに君臨したヒロヒト(昭和)は、一心に背負わなければならなかった。

それが、あるべき人間としての(あり方)だった。

 

ともすれば、(戦争反対)とか(悲劇は、繰り返しません)とオウムのように叫ぶ人たちは、ヒロヒトの取り返しのつかない(過ち)について、(見て見ぬふり)をするか、気づかず?スルーしているワケで、これも許されることではない。

 

それにしても、人間とは、なんと愚かな生き物(動物)だろう。人肉食が、戦時下で、繰り返されたにもかかわらず、あたかも無かったかのように、すまし顔で、何の総括も無く、のほほんと暮らしてきた。

 

嫌なことは、すぐに忘れる・・・権力によって(忘れさせられる)

それが、人間という動物だった。そんな人間が、救いを、求めても与えられることはないだろうと思うが・・・・。

 

皆さんは、どう思われるか?    (はんぺん)

――――――――――――――――――――――――――――――――

ニューギニア・飢えとの闘い(写真集)(一億人の昭和史 日本の戦争9 1980年毎日新聞刊 p140-199

 10 “食なき戦い”ニューギニア転進記 佐藤豊治(当時、第二軍野戦貨物廠・陸軍主計大尉)

  1.  “現地自活”を旗じるしに

 千葉県柏市の近衛工兵連隊で編成された第三〇野戦貨物廠の先遣隊として、西部ニューギュアの首都マノクワリに第一歩を印したのは、昭和十八年十一月十二日であった。この年十月、激しさを加える連合軍の反攻に備えるため、在満州の第二方面軍(阿南惟幾大将)と第二軍(豊島房太郎中将)が南方に転用され、われわれは西部ニューギニアに進出する第二軍の兵姑を一手に引き受けることになっていた(同年十二月、第二軍野戦貨物廠に改編)。

 

 しかし、すでに本土との補給線は連合軍におびやかされ、当時ニューギニアまで無事到着できる軍需品は四〇%以下といわれていた。

 そのため至上命令は現地自活であった。農耕、漁労、搾油作業などの研究準備、さらには現地民との物々交換用物資(人絹布、鏡、玩具など)も用意して、私たちは赤道直下の世界第二の島に乗り込んだのである。

 十一月二十日、本隊の輸送船も無事マノクワリに入港、直ちに本格的な作業が始まった。

 

 現地自活の主役・開拓勤務中隊は、千古のジャングルに斧を入れ、未開地を耕し、内地から持参した甘藷や野菜の植え付け準備に汗を流すとともに、サゴ椰子からの澱粉採取やパパイア、バナナなどの確保利用にも取りかかった。

 

 だか、連合軍の反攻は急ピッチだった。東部ニューギニアのフィンシハーフェンをめぐる激しい攻防は、ついに十二月末、第二〇師団のレオ後退となり、一方、ニューブリテン島マーカス岬へ十二月十五日、米軍は上陸を開始していた。

マノクワリの波止場。同地の人口は6000弱、パプア族と少数の華僑が住んでいた。第2軍司令部は1811月末同地に進出した。

 

 十九年一月下旬のことである。廠長内田栄喜大佐から緊急召集がかかった。

緊迫する戦況説明のあと、大佐は一段ときびしい口調で訓示した。

 『先般来、一年分の糧食を満載した二隻の輸送船がフィリピン沖、ジャワ沖で相次いで海没。今後は現在到着している半年分足らずの糧食を完全に分散貯蔵して空爆の被害から守るとともに、給与を一二分の一に減らし、不足分は可及的速やかに現地補給する」

 

 ジャワ沖では、沈められた米で海面が真っ白になったと聞いた。

 中部ニューギニア『ホトランジアの航空隊から、二人の兵が貨物廠にたどりついたのはその頃たった。

 補給要請に派遣された下士官兵三十余人が、ホーランジア基地を出発したのは三週間前。敵襲と疲労と飢えとマラリアでパタパタと倒れ、ようやくマノクワリに到着したのは衰弱の極に達した二人だけであったという。

 

 「戦友はまさに息絶えんとする時、どうかオレが死んだらその肉をくって任務を貫徹してくれと、励ましてくれました」と、涙ながらに語る二人の告白を聞いて、われわれは言うべき言葉もなかった。

 すでに前線には急速に飢えが襲いかかっていたのだ。

 

現地民も動員して開墾作業

2軍の野戦貨物廠には漁労班4、食品加工班3、搾油班3、開拓勤務隊4が配属され自足自給を目指した

 

 そして間もなく、われわれもまた同じ運命に見舞われることになるのである,

 五月二十七日早朝、米軍はついにマノクワリの表玄関・ビアク島に未襲した。

 わずか二ヵ月足らず前、私は補給基地設定のため同島を訪れたばかりであった。

 海岸から百メートルほど切り立った崖を、日本軍は三ヵ月がかりで爆破し、道を作り軍需品を輸送したか、上陸した米軍はエスカレーターで、あっという間に物資を揚陸してしまったという。

 

  1.  飢えと病に半数が倒れた

 同島の日本軍守備隊は八月中旬、ついに連絡を断つが、これに先立ちマノクワリにあった第二軍司令部と第三五師団の主力は一部を残して南方のイドレ、バポと西方のソロンに転進、持久を策すこととなった。軍司令部かマノクワリを出発したのは七月四日である。

 

 われわれ野戦貨物廠約五〇〇〇の将兵も、 一部を除き数梯団にわかれて南を目指すこと に決まった。マノクワリ~ムミ~シンヨリ~ ヤカチ~イドレまで直線距離で約二〇〇キロ、 しかし前人未踏のジャングル、湿地帯、山岳 の道なき道を二本の足だけを頼りに進むので 背嚢にできる限りの物品をつめた。上衣袴下各一、外被一、米四・五キロ、乾パン三食分、牛缶五、マッチ、ロウソク、それに物交用の八絹布五メートルと有事の際の手榴弾二個をしのばせると、もういっぱいだった。こうして私の指揮する第三梯団四十人が、トラックでマノクワリを出発したのは七月十二日、私がマノクワリ入りしてちょうど八ヵ月後であった。

 

 その夜、ムミの宿舎で一泊したわれわれは、二人あて一個の牛缶をあけて“最後の晩さん”をとった。そして翌日から、いよいよ“死の行軍”が始まったのである。

 すぐにマングローブの生い茂る湿地帯になる。ちょっと油断をすると、マングローブの根から足を踏みはずして泥沼へ落ち込む。平原に出ると、赤道直下の太陽が容赦なく全身をこがす。そして、いつ来襲するかわからぬ敵機に神経を張りつめる。ジャングルに入ると、巨大な山ヒルがサラサラとまるで雨のような音を立てて、体の上に降ってくる。一時間五キロの行軍路程はたちまち二キロになり、一キロになった。

 

 日の沈むまでに適当な宿宮地を探さなければならない。

 ①水が確保でき ②地面が乾いて ③空からの攻撃を避けられ ④何か食糧になるものがとれ、そして ⑤周囲に死体がころがっていないところ――それが理想的な宿宮地の条件だか、なかなかそうはいかない。

 重い背嚢を下ろし、さてと一握りの米でかゆを作り始めると、たいがいどこからともなく死臭が漂ってくる。 しかし、目をつぶって我慢することにする。

 

 期待していたバナナ、マンゴウ、パパイアもまず手に入らない。先発隊によって、根こそぎとりつくされていたからである。

 せいぜい木の葉を火にあぶって、浅草海苔のつもりでかじる。恐ろしいマラリア蚊の襲撃に悩みながら、疲れた体を横にする。こうして、十数日がたった。

 体はみるみるやせていった。だれも彼もが、目だけを異様に光らせ、スズメのような便をたれた。

 

 シンヨリに着く直前だった。当番兵のS上等兵は靴をはきつぶし、地下足袋は破れ、足がはれ上がっていた。

 見かねて、彼にいった。

 「おい、あそこに立派な靴をはいた兵隊がいるぞ。よく拝んでいただいてこい」「はい」とSが倒れた兵隊に近付き、巻脚絆を解こうとした時である。

 「おい、食うには早いぞ、まだ生きてるんだ」――蚊細い声は、しかし私の肺俯を貫いた。

死肉を食べる――すでにうわさとして聞いていた。まさに「地獄絵だ」と思った。

 S上等兵自身も、やがて一週間後栄養失調のため歩行不能となり、シンヨリで病死する。

 ようやくたどり殖いたシンヨリでも、またいくつかの“悲劇”を見聞した。先輩の池田良貞獣医務少佐が、マラリアの高熱におかされ、呻吟していた。すでに意識も定かでない少佐は、大声をあげて命令する。

 「予はパプア王国の王だぞ、花を集めて王冠を作れ!」

 間もなく少佐は亡くなった。

 

 シンヨリの南方二〇キロ、転進部隊のため大館克巳見習士官を長とする補給所が設けられていた。 フラフラになってやってくる将兵に、米一合と若干の椰子油を補給するのが任務だった。

 確か私がシンヨリに着いて三日後、九月十五日のことである。

 十数人の兵士か補給所に到着した。

 ところが、たまたま川が氾濫して、イドレからの補給が間に合わず、糧食は底をついていた。

 「明日はくると思うから、待ってくれ」と見習士官は断ったそうである。

ところが、たまたま奥で、一人の兵が一握りの米を炊飯しているのを目にした彼らは激高した。 「早く米を出せ」「ないとはいわさぬぞ」。

 ついに、彼らは刃をふるって見習士官と兵一人を無惨にも斬殺してしまったのである。

 

 飢餓が入間の正常な神経をいかに狂わすか、まさに“食なき戦い”の凄絶な一幕であった。 翌日、シンヨリを発った私たちが、ヤカチを経て最終目的地のイドレに到着したのは、マノクワリ出発後二ヵ月余がたっていた。

この悲惨な大転進で、約半数が犠牲となり、そして七〇キロあった私の体重は、わずか四五キロに減っていた。

 

11 八割余が海没した輸送船

 

 「ああ堂々の……」と歌われた輸送船――兵員・軍需品を前線に送り込み資源の乏しい本土に南方から物資を運ふ文字どおり補給線の祖い手が輸送船であり、戦争の行方を左右したのが“輸送戦”だった。

 そして戦局が苛烈の度を加えるとともにその被害も続出、大戦中実に二五〇〇余隻全使用量の八割二分を失うという、悲劇に見舞われたのである――

 






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最終更新日  2021.04.26 16:41:36
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