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2021.05.05
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カテゴリ:反戦平和

「総力戦」という言葉は、開戦当初は、叫ばれても、そんなに強く意識されていなかったが、敗戦色濃厚になるにつれて、戦争指導者たちは、慌てだしたようだ。(敗戦戦争責任追及)という恐怖が、拡がっていったのだろう。

 

問題の解決を精神主義で、乗り切ってきた・・・そのツケは、大きかった。総力戦は、国力戦であり、そもそも、日米開戦などは、国力の圧倒的な格差の中では、物理的に、常識的には、考えられない代物だった。

 

日露戦争や第一次大戦時の、真摯な総括無しで、アジア・太平洋戦争に突入したわけだが、そのため、多くの日本人が殺されたし、多くのアジア民衆が、殺された・・・本当に、日本人は、反省したのだろうか? 戦争指導者のトップ、ヒロヒト(昭和)は、責任追及を免れて、戦後も、ぬくぬくと生き残った。多くの日本人の恨みが、果たされずに、戦後75年が過ぎた。

 

あの若き特攻兵たちの青春を奪い、多くの日本兵たちの南海の孤島での大量餓死、広島・長崎での被爆も含めた都市空襲での国民の大量死の責任追及は、いまだに、宙に浮いたまま、75年が過ぎたわけだ。

 

軍部と結託したマスコミの責任追求も果たされていない。マスコミ(新聞・ラジオ・雑誌など)は、軍部に迎合して、翼賛記事、翼賛放送を連日垂れ流し、戦意高揚に加担している。

 

そういう現実が、後世に正しく伝えられているようには思えない。それは、今のリベラルの現状を見て、よくわかる。彼らは「戦争はイヤだ」「戦争は、繰り返しません」「平和憲法を守ります」・・・としか言わない。なんとピント外れの認識なのだろうか?

 

長い日本の歴史、世界の歴史から、何を学んできたのだろうか? 

戦後、世界は、自由主義世界体制と社会主義世界体制の間で、(冷戦)が勃発し、長い間、(鉄のカーテン)で、隠蔽された社会主義体制が、(進歩的)であるかに錯覚させられてきた。

ソ連・東欧の崩壊で、化けの皮がはがされて、真実が見えてきたときに・・・世界は、驚いた。

 

社会主義を(希望の星)と考えていた多くの理想主義者たち、誠実で献身的な活動家たちが、絶望の末、闘いを放棄して、諸運動、各戦線から離脱していった。そういう友人知人を多く知っている。

 

そんな今でも、「新たな社会主義を目指す」という綱領を掲げて、活動を続けている小グループの存在には、驚かされる。どうして、そんなことができるのか? 簡単だ・・・(都合の悪い事柄には、見て見ぬ振り)を決め込むだけで良いから・・・

 

今年も、5月3日の(憲法記念日)では、様々な取り組みが、行われたようだが、(戦争反対・第9条守れ)と(戦争反対・自衛隊反対)は、口が裂けても、叫ぶべきではない!!ということだ。

 

好戦的・帝国主義的な全体主義が、泣いて喜ぶスローガンを叫んで、自らの首を締め上げる事の愚を、正しく認識するべきだろう。(自分も含めて)戦後リベラルたちの過ちの根本は、ココカラ発生している。

 

(戦争反対)は、当たり前のことで、そもそも誰が、凄惨な戦争を好むのか? 戦争で肥え太る軍需産業を除いては、誰も支持しないだろう。戦争に対する正しい認識、公正な平和教育が、追求されるべきだ。

 

「確かに戦争は悪です。しかし、その戦争によってもっと巨大な悪をストップせねばならぬこともあります。もし連合国がヒットラーをストップしなかったら今頃世界はどうなっていましたか」(サッチャー元英国首相)

 

「平和は貴いものです。しかし、自由はもっと貴いのです。独裁の中での平和よりも混乱の中での自由の方がはるかに人間的であると私は思います。その自由のシステムが存亡の危機にあるとき、自由を愛し、自由の恩恵に浴している人間は立ち上がらねばなりません」(同)

 

皆さんは、どう思われるか?     (はんぺん)

―――――――――――――――――――――――――――――――

飢餓、自殺強要、私的制裁・・・戦闘どころではなかった旧日本軍  2019.8.14   森 永輔 (日経ビジネス副編集長)  日経ビジネス

 
映画「この世界の片隅に」(2016年公開)が83日、NHKによって地上波放送で初めて放映された。こうの史代さんのマンガを原作とする劇場版アニメだ。主人公は、すずさん。絵を描くのが好きな18歳の女性だ。広島から呉に嫁ぎ、戦争の時代を生きる(関連記事「『この世界の片隅に』は、一次資料の塊だ」)。アジア・太平洋戦争中の、普通の人の暮らしを淡々と描いたことが共感を呼んだ。

 

 一方、アジア・太平洋戦争中の、戦地における兵士の実態を、数字に基づき客観的に描写したのが、吉田裕・一橋大学大学院特任教授の著書『日本軍兵士』だ。「戦闘」の場面はほとんど登場しない。描くのは、重い荷物を背負っての行軍、食料不足による栄養失調、私的制裁という暴力、兵士の逃亡・自殺・奔敵、戦争神経症に苦しむ様子--。同書の記述からは、軍が兵士をヒトとして遇そうとした跡を感じることはできない。加えて、第1次世界大戦から主流となった「総力戦」を戦う態勢ができていなかった事実が随所に垣間見られる。

 

 なぜ、このような戦い方をしたのか。終戦記念日 を迎えたのを機に考える。吉田特任教授に話を聞いた。(聞き手 森 永輔)

 

—吉田さんはご著書『日本軍兵士』の中で衝撃的な数字を紹介しています。

 

 支那駐屯歩兵第一連隊の部隊史を見てみよう 。(中略)日中戦争以降の全戦没者は、「戦没者名簿」によれば、2625人である。このうち(中略)1944年以降の戦没者は、敗戦後の死者も含めて戦死者=533人、戦病死者=1475人、合計2008人である。(後略)(支那駐屯歩兵第一連隊史)(出所:『日本軍兵士』)

 

 この部隊の戦没者のうち約76%が終戦前の約1年間に集中しています。しかも、その73%が「戦病死者」。つまり「戦闘」ではなく、戦地における日々の生活の中で亡くなった。敗戦色が濃厚になるにつれ、兵士たちは戦闘どころではなく、生きることに必死だった様子がうかがわれます。

 

 戦病死の中には、「餓死」が大きなウエイトを占めていました。

 

 日中戦争以降の軍人・軍属の戦没者数はすでに述べたように約230万人だが、餓死に関する藤原彰の先駆的研究は、このうち栄養失調による餓死者と、栄養失調に伴う体力の消耗の結果、マラリアなどに感染して病死した広義の餓死者の合計は、140万人(全体の61%)に達すると推定している*。(『餓死した英霊たち』)(出所:『日本軍兵士』)

 

 飢餓が激しくなると、食糧を求めて、日本軍兵士が日本軍兵士を襲う事態まで発生しました。

 

 飢餓がさらに深刻になると、食糧強奪のための殺害、あるいは、人肉食のための殺害まで横行するようになった。(中略)元陸軍軍医中尉の山田淳一は、日本軍の第1の敵は米軍、第2の敵はフィリピン人のゲリラ部隊、そして第3の敵は「われわれが『ジャパンゲリラ』と呼んだ日本兵の一群だった」として、その第3の敵について次のように説明している。

 

 彼等は戦局がますます不利となり、食料がいよいよ窮乏を告げるに及んで、戦意を喪失して厭戦的となり守地を離脱していったのである。しかも、自らは食料収集の体力を未だ残しながらも、労せずして友軍他部隊の食料の窃盗、横領、強奪を敢えてし、遂には殺人強盗、甚だしきに至っては屍肉さえも食らうに至った不逞、非人道的な一部の日本兵だった。(前掲、『比島派遣一軍医の奮戦記』)(出所:『日本軍兵士』)

 

負傷兵は自殺を強要される

—この後の質問の前提にある日本軍兵士の悲惨な事態を読者の皆さんと共有するため、もう少し、引用を続けます。

 

 兵士たちは飢餓に苦しむだけでなく、自殺を強要されたり、命令によって殺害されたりすることもありました。以下に説明する行為は「処置」 と呼ばれました。

(前略)戦闘に敗れ戦線が急速に崩壊したときなどに、捕虜になるのを防止するため、自力で後退することのできない多数の傷病兵を軍医や衛生兵などが殺害する、あるいは彼らに自殺を促すことが常態化していったのである。

 

 その最初の事例は、ガダルカナル島の戦いだろう。(中略)撤収作戦を実施して撤収は成功する。しかし、このとき、動くことのできない傷病兵の殺害が行われた。(中略)

(中略)視察するため、ブーゲンビル島エレベンタ泊地に到着していた参謀次長が、東京あて発信した報告電の一節に、次のような箇所がある。

 

 当初より「ガ」島上陸総兵力の約30%は収容可能見込にして特別のものを除きては、ほとんど全部撤収しある状況なり

(中略)

 単独歩行不可能者は各隊とも最後まで現陣地に残置し、射撃可能者は射撃を以て敵を拒止し、敵至近距離に進撃せば自決する如く各人昇コウ錠[強い毒性を持つ殺菌剤]2錠宛を分配す

 

 これが撤収にあたっての患者処置の鉄則だったのである。

 (『ガダルカナル作戦の考察(1)』)

つまり、すでに、7割の兵士が戦死・戦病死(その多くは餓死)し、3割の兵士が生存しているが、そのうち身動きのできない傷病兵は昇コウ錠で自殺させた上で、単独歩行の可能な者だけを撤退させる方針である。(出所:『日本軍兵士』)

 

1次大戦時に修正できなかった精神主義

—食糧が不足し餓死と背中合わせ。戦闘で負傷すれば、自殺を強要される。こうした“踏んだり蹴ったり”の環境では、戦闘どころではありません。戦争はもちろんしないに越したことはありません。しかし、仮にしなければならないとするなら、兵士をヒトとして遇し、十分な食糧と休息を与えるべきだったのではないでしょうか。

 

なぜ、アジア・太平洋戦争では、そんな態勢が作れなかったのでしょう。日清・日露というそれ以前の戦争では、兵士をヒトとして遇していたのでしょうか。

――――――――――――――――――――――――――――――――

吉田 裕(一橋大学大学院特任教授) アジア・太平洋戦争の時ほど極端ではありませんが、日本軍に独特の精神主義が存在していました。典型は、歩兵による白兵突撃です。銃の先に銃剣を付け突撃し攻撃路を開く、というやり方。その背景には、「精神力で敵を圧倒する」という精神主義がありました。

 

 日露戦争後、こうした考え方が軍内に広まっていきます。例えば、陸軍は歩兵操典などの典範令(教則本)を大改正して、ドイツ製の翻訳から、独自のものに改めました。内容的には、日本古来の伝統、精神を重視するものにした。例えば夜襲を重視しています。

 

—日露戦争当時の軍は、日露戦争は白兵突撃によって勝ったと認識していたのですか。司馬遼太郎さんが同戦争を描いた小説『坂の上の雲』の影響かもしれませんが、「二〇三高地の戦いにおける白兵戦は愚かな作戦だった」という印象を持っていました。乃木希典・第三軍司令官は、効果が小さいにもかかわらず、犠牲の多い、白兵突撃を繰り返した、と。

 

吉田:事実はともかく、「白兵戦によって勝った」「日本精神によって勝った」という“神話”を作ってしまったのです。

 本来なら、その後に起きた第1次世界大戦を研究する中で、こうした精神主義を修正すべきでした。しかし、それができなかった。

 

 例えば、歩兵による白兵突撃主義を取ったのは、日本軍だけではありません。欧州諸国の軍も同様でした。派手な軍服を着て、横一列に並んで突撃していったのです。しかし、第1次世界大戦を戦う中で挫折した。機関銃と戦車の登場が契機でした。

 

 日本軍は、第1次世界大戦中の欧州の状況を詳しく研究しました。しかし、研究するのと参加するのとでは話が違います。欧州戦に参加しなかった日本軍は、第1次世界大戦をリアリティーをもって感じることができなかったのでしょう。

 

部下による反抗恐れ私的制裁を容認

 

—兵士たちは餓死や処置を覚悟しなければならないだけでなく、私的制裁にも苦しめられました。私的制裁を苦にして、逃亡、奔敵(敵側に逃亡すること)、自殺に至る兵士が多数いました。

 

 初年兵教育係りの助手を命じられたある陸軍上等兵による、初年兵への執拗な私的制裁によって、彼の班に属する初年兵28人のほとんどが「全治数日間を要する顔面打撲傷」を負った。このため、私的制裁を恐れた初年兵の一人が、自傷による離隊を決意して自分自身に向けて小銃を発砲したところ、弾丸がそれて他の初年兵に命中し、その初年兵が死亡する事件が起こった。(『陸軍軍法会議判例類集1』)(出所:『日本軍兵士』)

 

 なんとも悲惨な話です。なぜ、私的制裁を取り締まることができなかったのでしょう。

 

吉田:当時は、徹底的にいじめ、痛めつけることで、強い兵士をつくることができると考えられていました。この考えから抜け出すことができなかったのです。

 

 加えて、私的制裁が古参兵にとってガス抜きの役割を果たしていたことが挙げられます。兵士たちは劣悪な待遇の下に置かれています。この鬱屈とした激情が上官に向かって爆発すると、軍としては困る。実際、上官に逆らう対上官犯 は戦争が進むにつれて増えていきました。これを、単に規制するだけでは、火に油を注ぐことになりかねません。そこで、「下」に向けて発散するのを容認する傾向がありました。

 

 鬱屈とした激情を、「下」だけでなく「外」に向かって発散するのを容認する面もありました。

 

 そうした教育の戦場における総仕上げが、「刺突」訓練だった。初年兵や戦場経験を持たない補充兵などに、中国人の農民や捕虜を小銃に装着した銃剣で突き殺させる訓練である。

 

 藤田茂は、1938年末から39年にかけて、騎兵第二八連隊長として、連隊の将校全員に、「兵を戦場に慣れしむるためには殺人が早い方法である。すなわち度胸試しである。これには俘虜(捕虜のこと)を使用すればよい。4月には初年兵が補充される予定であるから、なるべく早くこの機会を作って初年兵を戦場に慣れしめ強くしなければならない」、「これには銃殺より刺殺が効果的である」と訓示したと回想している。(『侵略の証言』)(出所:『日本軍兵士』)

 

軍刑法に私的制裁の禁止条項なし

—軍法会議は機能していなかったのですか。

 

吉田:陸軍や海軍の刑法には、私的制裁を禁止する条項がありませんでした。

 陸軍刑法に「陵虐の罪」の規定があります。しかし、これは、兵士を裸にして木にくくりつけるなど非常に極端な行為を対象にするもので、日常的に起こる私的制裁を対象にするものではありませんでした。

 

 取り締まるとすれば、一般の刑法の「暴行及び傷害の罪等」を適用する。

—確かに、初年兵28人に「全治数日間を要する顔面打撲傷」を与えた陸軍上等兵は刑法の傷害罪で懲役6カ月の有罪判決を受けています。この事件は初年兵の一人が自傷を試みたことによって発覚しました。

 

 かつて見た、「ア・フュー・グッドメン」という映画を思い出しました。トム・クルーズ氏が主演で、軍に勤める法務官。海軍の基地で、ジャック・ニコルソン氏演じる司令官が「コードR」(規律を乱す者への暴力的制裁)を命じて、若い兵士を死に至らしめる。法務官が法廷で大ばくちを打って、司令官を有罪に持ち込む、というストーリーです。この「コードR」に相当するものが、当時の日本の軍刑法には存在しなかったのですね。

 

吉田:軍法会議に関する研究は実は進んでいないのです。法務省が資料を保管し、公開してこなかったのが一因です。今は、国立公文書館に移管されたようですが。二・二六事件をめぐる軍法会議の資料が閲覧できるようになったのは敗戦後50年もたってからのことです。これから新たな研究が出てくるかもしれません。

―――――――――――――――――――――――――――――――

吉田 裕(よしだ・ゆたか) 一橋大学大学院特任教授

 専門は日本近現代軍事史、日本近現代政治史。1954年生まれ。1977年に東京教育大学を卒業、1983年に一橋大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。一橋大学社会学部助手、助教授を経て、96年から教授。主な著書に『昭和天皇の終戦史』『日本人の戦争観』『アジア・太平洋戦争』など(写真:加藤 康、以下同)。

 

 






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最終更新日  2021.05.05 15:27:53
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