カテゴリ:主張
時代から取り残される 進歩の無いリベラル
彼は、学生運動(フロント)時代、東大闘争での活動家でもあり、おそらくレーニンの「国家と革命」の学習会などで聞きかじって、記憶の底にあったのだろう・・・
1917年に執筆された著書『国家と革命』の中でウラジーミル・レーニンは「暴力装置」という言葉を使っている。 仙谷氏は、すぐに謝罪して、「実力組織」という言葉に訂正しているが、もともと、暴力(=ゲバルト)という言葉は、日本では、ネガティブの印象があるが、社会学的には、そんなことはないそうだ。
権力を維持するためには、リベラルであれ、コンサーバティブであれ、実力組織は、必要不可欠だ。法治国家では、(法による支配)が前提だから、法(ルール)を守らないなら、軍隊、警察、刑務所・・・などの実力組織(暴力装置)は、絶対に欠かせない・・・
リベラル政権であれ、治安対策は、(人権)との整合性の下、毅然と強力に確立するべきだ。 しばしば現実性に欠けると非難される日本リベラルだが、(人権配慮)を錦の御旗に、現実から遊離する傾向が、これまで何度もあったように思える。
平和憲法守れ→第9条守れ→戦力放棄→自衛隊反対・・・などは、極端な誤りだった。「戦争の惨禍」(憲法前文)を(反省)するとして、(自衛権まで放棄)するという決定的な過ちを犯し、周辺の軍事大国(中国)や狂信国家(北朝鮮)を狂喜させてきたし、これは、今も続いている。
これは、まさに形而上学的な誤りと言うべきではないか? 「戦争の惨禍」を固定的、限定的にとらえ、その結果に至る(連関)の理解が欠落しているのだ。 (自衛隊=暴力装置)も同じで、国家における実力組織の歴史(=流れ)を理解していく中での位置づけ無しに、そのものを否定するのは、まったく反弁証法的だ・・・違うだろうか???
「事物とその概念による模写とを、本質的に、それらの連関、連鎖、運動、生成と消滅においてとらえる」(エンゲルス)弁証法からは、あり得ない・・と思う。
彼らには、戦争の全否定がすべての出発点・・・という誤った認識がある。 戦争は、こちらから仕掛ける・・・ばかりではない。(敵と味方という具合に)相手があっての戦争であり、歴史を勉強すれば、攻める側と攻められる(=受けを強いられる)側が、必ずあっただろう・・・ということだ。
攻められた側は、どう対応すれば良いのか・・・??? 弁証法的には、これが、問題の核心だった。それを避け続けてきたのが、日本リベラルだった。
前に、何回も紹介したが、真摯に回答(?)した護憲学者がいた。再掲すると・・ 森嶋通夫(元ロンドン大学教授)だ。 「不幸にして最悪の事態が起きれば、白旗と赤旗をもって、平静にソ連軍を迎えるより他ない。34年前に米軍を迎えたようにである。そしてソ連の支配下でも、私たちさえしっかりしていれば、日本に適合した社会主義経済を建設することは可能である。」 出典元:1979年3月9日『北海道新聞』より
当時は、まだ、(社会主義幻想)が、知的社会を席巻?していたかもしれない・・・が、それにしても、はっきりと言ったものだ。
しかし、現実世界は、どうなったのか? 森嶋氏の考えるように、ソ連や中国が日本に「政治的自決権」を認めてくれるなら結構なことだが、東ヨーロッパを自由の無い支配下に置いたソ連、人権弾圧・民族抹殺(ジェノサイド)をモンゴル・チベット・ウイグルで強行する中国・・・・ そんな期待ができるとは・・・おめでたいというか・・・・
選択肢は2つ・・・憲法を守るために、自衛隊を廃止するか、自衛隊を認めるため、憲法を変えるか・・・だ。結論は、出ているように、僕には思えるが・・・
―――――――――――――――――――――――――――――――― Don’t walk in front of me, I may not follow. Don’t walk behind me, I may not lead. Walk beside me and be my friend. by Albert Camus 私の前を歩かないでください。私は付いていかないかもしれません。 私の後ろを歩かないでください。私は導かないかもしれません。 私の横を歩いて、私の友達でいてください。 アルベール・カミュ(フランスの小説家・劇作家)
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最終更新日
2021.12.21 04:46:59
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