カテゴリ:反天皇制
戦争犯罪の総元締めは、ヒロヒト(裕仁)だが、責任追及を免れて生き延びた。 遺族は決して忘れないこと!! 2022-1-26 (はんぺん) ヒロヒトの名のもとに開始されたアジア太平洋戦争で、多くの戦争犯罪が繰り返されてきたが、最終責任は、もちろんヒロヒト本人である。
ヒロヒトは、幸運にも(米ソ対立)を見越したGHQにより、東京裁判から外され、命拾いして生き延びたが・・・草葉の陰から恨み骨髄の思いを抱く多くの死者がいたことは、間違いがない。
戦前・戦中での徹底した皇民化教育で、多くの国民は洗脳されて「滅私奉公」「欲しがりません、勝つまでは」「尽忠報国」「鬼畜米英」「一億玉砕」「聖戦完遂」・・・など、戦時下では、国民に向けた 戦意高揚スローガンが乱舞した。
戦争の実相を知ることで、真実に目を開くことが出来る・・・ 以下、(バターン死の行進)の資料から・・・・
皆さんは、どう思われるか? (はんぺん) ―――――――――――――――――――――――――――― (QUORA) 戦闘中の兵士や戦闘員は、どうして悪びれずに戦争犯罪を犯すことができるようになるのでしょうか? (フォロー 米国弁護士、法学博士1月19日 Rem Ogaki)
犠牲者を人間と見ていないからですが、それには「訓練」の問題があります。
兵士は効果的になるには敵を人間視しない様に訓練しなければいけませんが、逆に「敵」を徹底的に国際法に基づいた定義を叩きこまないと、虐殺マシーンとなってしまいます。
(バターン死の行進) 1941年12月8日、太平洋戦争開戦と同時にフィリピンに奇襲上陸を果たした日本軍は快進撃を続け、連戦連勝を続けていた。
日本軍の進撃を止める事が不可能と12月半ばに考えたマッカーサー将軍は米軍をバターン要塞に撤退させ、最後の抵抗を試みたが、4月9日には全軍が無条件降伏した。
日本軍はバターンで投降したアメリカ人・フィリピン人を内地の基地に移す事を計画していた。
しかし、日本軍指揮官の本間雅晴中将は推定3-4万人がバターンに籠っていると予測していたが、軍民合わせて8万人が投降した事に驚き、捕虜移動の為の用意が大幅に足りなかった事もあるが、それを遥かに超えた悲劇の幕開けであり、最低でも5千人以上フィリピン人、500人以上の米国人(高い推定では1万5千人の犠牲者)を出す「バターン死の行進」と呼ばれる事件であった。
本間中将はこの行進において捕虜大量虐殺を行う意向は無かったとする事は歴史家の均一な意見であり、大本営を含む日本軍上層部にも虐殺を命令したと言う事実は無い。
しかし、まず大本営参謀としてバターンに居た辻政信少佐が 「米比軍投降者を一律に射殺すべしという大本営命令を伝達する」と言う嘘の命令を第65旅団に口頭で伝えて回り、なお、米軍と共に戦ったフィリピン人は白人との人種闘争における裏切り者であり、全員が処刑されるべしと言った。
松永梅一の後日談によると辻少佐の命令で350人~400人の米比兵がパティンガン川付近に連れられ、そこで全員が銃殺された。最終的に道中500-600人の捕虜を処刑させたと言う。
当然ながらに捕虜の無差別処刑は戦争犯罪である。
なお、米軍の生存者であるカーミット・レイ少尉の戦後の回想録によると ~~~~~~~~~~~ 彼ら(日本軍兵)は我々を水田に押し込み、我々に乱暴な身体調査を始めた。我々は百人ほどいたのでかなり時間がかかった。ポケットは裏返しにされ、宝石類等の私物は取られ。多くの人が平手打ちをされていた。私は新約聖書を取られた。この盗難が行われた後、士官一人と2人の兵卒が近くの小屋の裏に連れていかれて、撃たれた。彼らは日本の紙幣や土産品を持っていた為、近くにいた仲間によると日本兵の死体を漁ったとみなされたらしい ~~~~~~~~~~~ と語った。
これは多くの米兵の生き残りが似た様な話を聞いたと伝えるエピソードであり、処刑が進められるに連れて、「日本の物を持っていたら殺される」と言う話が米兵に広まり、それらの物は捨てる兵が多く居た。
例え日本兵から遺品を奪ったとしても、それだけで捕虜を処刑する事は戦争犯罪である。
なお、多くの米兵は日本兵に「The Sun Treatment」(日光の措置)と呼ばれる様になった拷問に晒されたと言う証言が多数ある。日本軍は基本的に日中の行進をさけ、早朝や夕方の移動を行わせたが、多くの反抗的と見られた米兵は休んでいる炎天下の日中に水も与えられずに日差しの中に座らされ、「水をくれ」と言った兵士は射殺された。日差しを冴えぎる帽子やヘルメット等も奪われた。
これは国際法上「拷問」に値する行為であり、戦争犯罪である。
なお、道中捕虜たちは食料・水不足に悩まされ、多くの兵士がマラリア等を発病し、次々と倒れて行った。歩けないと言ったり、反抗的と見られた捕虜は容赦なく殴られ、蹴られ、立ち上がれないと言ったら銃剣で刺された兵士も多く居たと言う類の証言が多く残される。
行軍に参加した米衛生兵たちの証言によると、道中で日本軍は基本的に病気で倒れた捕虜に治療を行おうとせず、放置した。なので、捕虜の治療は米衛生兵が行ったが、治療器具の多くが奪われ、なお薬等は一切もらえなかったので行える措置が非常に限られていた。
捕虜の基本的医療措置は国際法上の義務であり、病人を放置する事は戦争犯罪である。
サン・フェルナンド市に到着した捕虜はそのままカパス行きの列車に詰め込まれ、1時間後のカパス市に送られた。その頃、地域の気温は43度を超え、非常に暑い日が続いていた。
その「死の貨物列車」と呼ばれた惨状をアルフ・ラーソン軍曹が伝えました:
「その列車は第一次世界大戦時代の貨物列車の6-7車両だった…灯りも窓も換気も無く、中はうだる様に暑かった…彼ら(日本軍)は我々のカンヅメの魚の様に詰め込み、あまりにも多くの人が押し込まれた為、人が座る事は出来なかった。彼らは扉を閉め切った。我々は気を失ったら、倒れる事も出来なかった。便所は無く、その場で立ったままさせられた。夏が近く、天候は暑く、湿度が高かく、地獄の様な環境だった。我々は早朝に車両に詰め込められ、出してもらえたのは夕方近くだった。車両の中で死人も出た。」
ラーソン軍曹の経験はほとんどの捕虜の証言と一致し、各列車の中で数人は死人が出たと言う。
数時間も換気、水、医療措置も無い貨物列車に詰め込み、死者を出すのは非人道的環境として国際法違反、戦争犯罪である。
食事も満足に支給されず、例えば生存者のジェームズ・ビシアーズ氏は 「3日間の行進の間に与えられた食料は1杯の米だけだった。水は与えてもらえなかったので、道端の汚れた汚水を飲むしか無く、私は脱水症状の方が汚染した水よりマシと考えて、最大限水を飲まない様にした…
例外的に良心を見せてくれた日本兵も居た。一人の男が「腹が減ってないか」とジェスチャーしてきて、減ってると答えたら、イワシのカンヅメを渡してくれて上官に見つからない様にと合図してくれた。」と説明した。道中、脱水症状。疲労、病気、飢餓で倒れる捕虜は多くいたと語った。倒れた捕虜は放置され、仲間に担ぐ体力が残っていなければそのままジャングルで放置されて死に絶えた。
日本軍の一部では「日本兵と同じ量の食べ物と水を与えた」と言う主張があったが、連合軍の生存者はほぼ全員がそれは事実では無いと主張する。
(バターンの死の行進の生存者、ジェームズ・ビシーア氏) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022.01.26 00:00:12
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