カテゴリ:反天皇制
最大の殺人者は、ヒロヒト(裕仁)だった・・・ 独裁者の一声で、国内外に膨大な犠牲が生まれた事を忘れるな! 多くの国内外の民衆の家庭が壊され、多くの人命が奪われた! 2024-9-16 はんぺん ヒロヒト(裕仁)が、始めた戦争で、どれだけ多くの人命が、ムダに失われたのか!を思うと、いつも、やり切れない思いで一杯になる。 天皇という独裁者によって、庶民の命が、かくも軽く見られて、平気で死地に追いやられていった・・・その上、戦争犯罪を犯したヒロヒト(裕仁)は、生き延びた! 理不尽この上ない事だ・・・
改めて(洗脳)の恐ろしさを強く認識する。(天皇陛下バンザイ)と叫ばされて、貴い命を(国=天皇)に捧げる事を強要された庶民の無念を思う。 同時に、(洗脳)は、国民全体に、組織的に実行された。国家総力戦の遂行のため、国家の全ての人的・物的資源を政府が統制運用できる(総動員)旨を規定した国家総動員法が、1938年(昭和13年)に作られた。 この天皇制による(蛮行)に最大限の協力を惜しまなかったのが、新聞とラジオだった。(洗脳)は、国の隅々にまで及んだ・・・
特攻作戦は、作戦と言える代物ではないが・・・(お国のために・・・)(天皇陛下のために・・・)という(大日本帝国)による絶対権力の下に、有無を言わさぬ状況下で、同調圧力を利用して強行された・・・ (イヌ死に)(無駄死に)そのものであったが。それこそ、国家全体が(洗脳状態)にあった中での(蛮行)であった。 なんいう愚かな歴史だったのか・・・と、戦後生まれの僕などは思うが、(洗脳)による(恐ろしさ)、(価値観)の押し付け等には、呆然とするしかない・・・!!
「今回の番組で描こうとしているのは、特攻を「国民」がどう後押ししたのか、つまり、僕たちの祖父母の世代の責任のようなものです。そして、それを見ていく中で感じるのは、僕もその中にいたら 同じようなことをしてしまっただろうということです。」(本文) 「番組では、特攻隊員の志願と選別がいかに行われたかということと同時に、郷土出身の特攻戦死者を「軍神」と呼んで讃える歌をつくったり、文集をつくったり、女性雑誌の写真ページに特攻隊員の特集を組んだりするような「銃後」の熱狂、そして次代の特攻隊員をつくるため、学校ごとに志願者のノルマを課した「地方事務所」の存在、それに従い生徒に陸海軍への志願を迫った教員たちの姿までを描く。」(本文)
戦後、日本マスコミは、(天皇の戦争責任)の問題を、隠蔽しようと画策してきたが、この(現代ビジネス=週刊現代)も、同じで、戦犯ヒロヒトの事には、全く触れようとはしていない・・・ 特攻作戦が、戦争を始めたヒロヒト(裕仁)に究極の責任がある事を明記せずに、あいまいに隠蔽され続けている事は、絶対に許すことはできない・・・と考える。 戦争の(真実)に向き合うとは、そういう事ではないか・・・
皆さんは、どう思われるか? はんぺん ―――――――――――――――――――――――――― 「特攻隊員」に選ばれた者と選ばれなかった者を分けた「残酷な基準」 2024-9-20 現代ビジネス 特攻隊員の出身地などをプロットした地図(番組ホームページより) 今年(2024年)8月17日に放送されたNHKスペシャル「“一億特攻”への道~隊員4000人生と死の記録~」は、特攻を美化せず隊員を貶めず、各人の出身地や経歴を全て明らかにし、陸海軍だけでなく銃後にまで視点を広げた大変な力作だった。この番組には私もお手伝いし、「特攻志願と隊員の選別」について少しだけ話をしているが、ここでは番組内で私が語り切れなかった「特攻志願の闇」について、補足してみようと思う。
1つのテーマを追い続けた男 NHKスペシャル「“一億特攻”への道~隊員4000人生と死の記録~」を制作したNHKエンタープライズの大島隆之ディレクターは、約15年前、特攻隊をはじめとする元軍人や遺族、関係者の取材を始めた。最初は番組になるかどうかもわからない手探りの状況だったが、同志の金沢裕司カメラマンとともに、私費を投じて手弁当で取材を続けた。私は大島さんが取材を始めた頃、人の紹介で会い、以後、折に触れ番組制作を手伝うようになった。最初に会った当時、大島さんは27歳だったと記憶している。 15年前といえば、かろうじて元特攻隊員をはじめ当事者が少ないながらも健在で、その言葉を筋道立てて聞くことができた、まさに最後のチャンスだった。努力が実を結んで、それから何年も経たないうちに番組の企画が通るようになったが、大島さんの声価を高からしめたのは、2013年、一般社団法人全日本テレビ番組製作者連盟が、その年もっともすぐれた番組作品を選ぶ「ATP賞大賞」を受賞した「零戦~搭乗員たちが見つめた太平洋戦争~」だろう。 この番組では、私も取材のロケハンのため、大島さんと2人でポートモレスビーやラバウルやブカ島を旅し、また番組を書籍化した同タイトルの本を、連名で講談社より上梓した。 以後、大島さんは、一次資料とインタビュー、さらに最新の分析をもとに、戦争体験とヒューマニズムを絶妙に織り合わせた「大島節」とも呼べるスタイルを確立、毎年のように戦争関連番組を制作している。 異動が多いテレビ業界で、大島さんのように長きにわたり、ねちっこく一つのテーマを追えるディレクターはそうはいない。 特攻は「国民の責任」でもある 特攻隊員の遺族に贈られた「大君之楯」と題する寄せ書きの束。書いたのは学校の教員という。右に写っている婦人雑誌には特攻隊員の特集ページがある(番組ホームページより) 今回のNHKスペシャル「“一億特攻”への道~隊員4000人 生と死の記録~」は、そんな大島さんがこれまでに培ってきたものを全て盛り込んだような作品だった。放送直前、大島さんがFacebookに投稿した文章を引用しよう。
〈特攻というと、それを命じた軍がいかにひどかったかとか、命じられた隊員がどれほど辛い思いをしたかとか、僕たちはそういうことを語りがちだけれど、それに留まっていては、結局、叩きやすいところを叩いて溜飲を下げているだけ、やった気になっているだけなんじゃないか、戦争の現実を伝えきれていないのではないか、と自戒を込めて思い続けてきました。 今回の番組で描こうとしているのは、特攻を「国民」がどう後押ししたのか、つまり、僕たちの祖父母の世代の責任のようなものです。そして、それを見ていく中で感じるのは、僕もその中にいたら同じようなことをしてしまっただろうということです。そこから、何を学んでいけるのか。今回も全編、自分の言葉で、ナレーションで語らせてもらいました。〉 大島さんの言葉通り、番組では、特攻隊員の志願と選別がいかに行われたかということと同時に、郷土出身の特攻戦死者を「軍神」と呼んで讃える歌をつくったり、文集をつくったり、女性雑誌の写真ページに特攻隊員の特集を組んだりするような「銃後」の熱狂、そして次代の特攻隊員をつくるため、学校ごとに志願者のノルマを課した「地方事務所」の存在、それに従い生徒に陸海軍への志願を迫った教員たちの姿までを描く。 「一億特攻」のスローガンは、国民の後押しがあってこそだった、つまり国民の責任も軽くはないのではないかという視点である。そして戦後、生徒たちを陸海軍に送り込んだ教員が、敗戦後二度と教職に戻らなかった悔悟の念、新婚の夫を特攻で亡くした妻が自害したエピソードまでも遺族の回想とともに紹介している。
「人間爆弾」ができるまで 特筆すべきは、大島さんは戦没特攻隊員一人一人の出身地や経歴までも調べ上げ、それを日本地図にプロットすることで、これまで曖昧にされてきたさまざまな情報を可視化したことだ。 特攻隊員は当初は予科練卒の地方出身者が多かったのが、学窓から身を投じた予備士官が主力を占めるようになった昭和20年4月の沖縄戦あたりから、都市部の出身者が急激に増えてくる。当時、高等教育を受けられた学生は総人口の6パーセントに過ぎず、その多くは裕福な家庭の出身で、都市部に集中していた。特攻隊員の出身地をプロットした日本地図は、都市部と地方の教育格差までも浮き彫りにしていた。 さて、今回私が手伝ったのは、特攻隊員の志願と選別についてである。近年、戦時中の公文書が次々と開示されているが、その中から大島さんが、これまで謎とされてきた、特攻志願の実態を網羅した書類を発見した。 これは、昭和19(1944)年10月、フィリピンで最初の特攻隊が出撃したあと、11月から12月にかけて、内地や朝鮮半島に置かれた55もの航空隊で募られた特攻志願の状況を、各部隊から海軍省人事局に送った書類で、おそらく本邦初公開の資料である。海軍省人事局では、これを基にして、選別した搭乗員を特攻隊員として戦場に送り込んだのだ。 そもそも特攻は、フィリピンで最初の特攻隊が出撃する以前から海軍の既定路線だった。昭和19年2月末、人間魚雷(のちの回天)の試作が極秘裏に始められ、4月には9種類の「体当たり兵器」の開発実験が始まった。8月になると、新たに人間爆弾(のちの桜花)の開発が開始されている。 各種特攻兵器の開発を受け、第一線部隊をのぞく内地の航空隊でそれら兵器の搭乗員の志願が募られたのは昭和19年8月のこと。このときは隊員たちに「生還不能の新兵器」とだけ告げられ、妻帯者や長男は外す配慮がなされている。この志願者を中心に、のちに桜花や回天の搭乗員の第一陣が選ばれた。 卑怯者と言われたくない一心で 今回発見された書類は、それに続く二度目の大規模な特攻志願者募集である。 昭和19年10月、フィリピンで最初に出撃した特攻隊は、レイテ島に押し寄せる敵上陸部隊を粉砕するべく、日本海軍の主力艦隊がレイテ湾に突入するのを数少ない航空兵力で支援するため、いわば必要に迫られた苦肉の策だった。敵艦を撃沈するのが目的ではない。日本の主力艦隊を妨害する敵空母の飛行甲板を、一週間程度使用不能にすればよかったのだ。 このとき選ばれた指揮官は、新婚で母一人子一人の第二〇一海軍航空隊分隊長 関行男大尉である。ここでは、妻帯者や長男を外す配慮などない。関大尉は、二〇一空司令玉井浅一中佐の、限りなく強制に近い説得に応じて特攻隊の指揮官となった。 ほかの搭乗員も、玉井が志願を募ったさい、「行くのか、行かんのか!」の一喝に反射的に手を挙げた者や、隊長に個別に呼ばれ、特攻隊志願を懇請された者が中心になっている。 このときフィリピンで戦っていた搭乗員の多くは、6月のマリアナ沖海戦の大敗以来、実戦経験を通じて、戦局が不利になっていることを肌で感じていた。だから、「そういうことなら仕方がない」と、特攻志願に応じる者がいてもおかしくないような精神的な素地があった。 だが、主力艦隊のレイテ湾突入が未遂に終わり、日本海軍が「決戦」と位置づけた比島沖海戦(レイテ沖海戦)で大敗を喫した後も、最初の特攻隊が主力艦隊による砲撃以上の戦果を挙げたこともあり、フィリピンでは戦果を挙げる唯一の方法として特攻が継続された。 この頃、現地の部隊では、特攻志願者を募るのに、「志願する者は一歩前へ」というものから「志願しない者は一歩前へ」というやり方がまかり通るようになり、さらに夜、寝ている搭乗員たちの部屋で、「寝たままでよい、志願する者は官姓名を名乗れ」などという方法までとられた。 戦場では、個々の家庭環境まで考慮されることはなく、しかも大勢の搭乗員がいる中で募られる訳だから、同調圧力に耐えかねて志願してしまった人、後ろの者が一歩前に出たので押されて前に出てしまった人、「卑怯者と言われたくない」という一心で志願したという人もいる。フィリピンで特攻戦死した搭乗員の中には海軍次官の長男もいた。 そして、このままではフィリピンの搭乗員が足りなくなるのは目に見えていることから、現地の第一航空艦隊からの要請で、特攻隊の増援部隊を送るために募られたのが、今回書類が発見された特攻志願である(同時期に、すでに編成が始まっていた人間爆弾「桜花」の志願者募集も行われ、一部その書類もある)。 2132名の志願兵たち 横須賀海軍航空隊の調査書より。「大熱望」や「血書志願」の文字がある。「大熱望」とした速水経康大尉はその後、特攻隊ではなく第三四三海軍航空隊戦闘第四〇七飛行隊に転属した 55の航空隊から海軍省人事局に送られた書類には、志願者一人一人の希望程度(「熱望」または「望」。中には「大熱望」や「超大熱望」と書いた者もいる。部隊によっては血書が添えられていた)、上官による人物総評(性格、技倆など)、機種別、等級、個人を識別する電報番号(士官)か兵籍番号(下士官兵)、氏名、詳細な家庭環境が記されている。 志願した搭乗員は2132名にのぼるが、志願しなかった者の名前は記されていない。じっさい、私のインタビューの中で「志願しなかった」と答えた人の名前はここにはなかった。 ここで、私が番組内で言及した元山(げんざん)海軍航空隊の志願者名簿を見てみよう。元山空では、夜、誰もいない司令室の机の上に志願書を置け、という形がとられたという。そういう意味では、同調圧力は生じにくかったはずである。 志願したのは79名。うち海軍兵学校出身の正規将校11名、予備学生出身の予備士官38名、兵から累進した特務士官、准士官2名、下士官兵28名。 この数字だけ見ると、「兵学校出を温存して予備士官ばかりを行かせた」というよくある誤解が生じそうだから補足しておくが、当時、飛行機搭乗員の海軍兵学校卒の正規将校と予備士官の人数比は約15:85で、予備士官の方が圧倒的に多い。これは、正規将校の不足を補うために予備士官が大量養成されたいきさつから見ても当然のことである。元山空ばかりでなく、どの部隊でも予備士官の割合のほうがずっと多かったのだ。 名簿の1ページ目から2ページ目の1人目までは海軍兵学校の出身者だが、さすがに彼らは全員が「熱望」としている。次に予備士官。38名のうち「熱望」12名と「望」が26名。特務士官、准士官の2人は「望」、下士官兵は28名全員が「熱望」としている。 仲間うちで志願の話はタブー 元山航空隊で予備士官仲間と。この中で特攻志願を「熱望」として出したのは、右から4人目の土方さんだけだった 番組では予備学生13期出身の土方敏夫さんがインタビューに応え、 「志願するのはMust beでしょうね。そうせねばならぬ。私も海軍の将校で、部下たちが行くんだから、そういう気持ちでしょうね」と語っている。 土方さんは私のインタビューにも、「戦闘機乗りは空戦で敵機を撃墜して生きて帰るのが仕事。特攻はいやでした。でも、部下たちが行くなら仕方がない。特攻から逃げて、卑怯者とは呼ばれたくなかった」と、答えている。 土方さんはまた、「仲間うちで、志願した、しないなどの話はしなかった。ほんとうは志願したくないのもいるだろうし、俺は志願したぜ、と言うのも面はゆいですからね」とも言っている。これは、私が取材した限り、個々に志願を募ったどの航空隊にも共通することだった。 特攻指名が来なかったワケ 元山航空隊の予備士官のうち、成績最上位の3人は特攻隊員に選ばれなかった なお、「望」と書いた人の中には、内心「否」と書きたいところをそうは書きづらいので、「望」と小さい字で書いたという人もいる。しかし字が大きくても小さくても、「望」と書いたからには特攻志願をしたことになるのだ。 ところが、「熱望」と書いた土方さんに特攻指名はこなかった。名簿を見ると、熱望、望にかかわらず、予備学生の右から3人は除かれ、次の10人が特攻指名されている。 これはなぜか……というのが、大島さんから私への質問だった。 その答えは、一目見てわかった。「成績」である。 海軍では、入隊から教育期間終了まで、全科目で教え込んだことの試験が随時行われ、成績の順位が決められる。その総合順位が、名簿に載る順番になる。「海軍辞令公報」をはじめ、海軍の名簿はつねに成績順に記されることになっていた。それはなぜか。 軍人が2人以上いれば、それは「軍隊」である。軍隊である以上、常に指揮権の所在は明確にしないといけない。階級が違えばわかりやすいが、階級が同じ同期生の場合、成績の上位の者が「先任」となり、下位の者を指揮することになるのだ。このことは日常生活から徹底されていて、若手士官の公室である士官次室(ガンルーム)でも、上座から成績順に席が割り当てられ、食事のときであろうと好きな席に座ることはできなかった。 任官後、何年も経った士官なら、勤務成績や戦闘での勲功が加味されて、序列が変わることもあり得たが、特攻志願を募られた頃の予備士官は、予備学生時代の成績が全てである。 そして、特攻から外された土方さんを含む3人の成績の順位を「海軍辞令公報」で見てみると、小久保節彌さん10位、土方敏夫さん31位、大塚晃一さん111番(全4753名)と、極めて上位の成績である。海軍としては、これほど優秀な士官を一度の出撃で失うのは忍び難く、まずは教官として後進を育てさせることにしたのだ。 組織の冷たい決断 元山空からは、成績最上位の3人をのぞく成績上位者10名が、第一陣の特攻指名を受けた。 そして、それに続く10人の成績上位者が、熱望か望かにかかわらず第一陣として特攻指名され、絶対の「死」が約束された戦場に出て行った。 そして、それより成績下位の25人――成績下位とは言っても、当時のエリートには違いない――にも、このとき特攻指名はかからなかった。 そこには冷徹な組織の論理が見て取れる。これは現代の会社の人事評価とも共通するものがあるのではないだろうか。 トップクラスは幹部候補者として本丸に残し、それ以下の成績上位の者は営業など実戦部隊で力をふるってもらう。下位の者にはそれなりの仕事を与える、という具合に……。 ただ、このとき特攻指名されなかったというのは命の保証を意味しない。元山空の教官を経て土方さんが転属し、沖縄戦で戦った戦闘第三〇三飛行隊では、終戦までに89名の搭乗員のうち38名が敵機との空戦で戦死、戦死率は43パーセントにのぼっている。特攻に選ばれなかった小久保節彌中尉も、ここで戦死した(昭和20年4月16日、沖縄)。戦闘第三〇三飛行隊長は、「特攻反対」を貫いた岡嶋清熊少佐である。 沖縄戦の頃になると、第一陣の指名に漏れた下位の25人からも、特攻隊へ転属する者が増えてくる。戦争を生き延びられるか、戦死するかの答えは、終戦のその日まで誰にもわからなかったにちがいない。 ところで、このときの元山空の予備学生の名簿には、私が直接知っている人が土方さんをふくめ3人いる。あとの2人は、成績順で最初の指名がかからず、その後は実戦部隊に転属した内田稔さんと、練習航空隊に移った小野清紀さんだ。 土方さんの「人物総評」には、「真面目にして研究心極めて旺盛なり」とある。いっぽう、内田稔さん(望)は、「温順素直にして研究心に富むも、やや覇気に乏しき憾み」、小野清紀さん(望)は「真面目にして平凡なる人物なり」と、本人が見れば気を悪くしそうなことが書かれていた。 もう二度と繰り返してはならない 元山空で特攻の選に漏れた小野清紀さんは、谷田部海軍航空隊で再度特攻志願したものの、出撃することなく終戦を迎えた 内田さんはその後、新鋭機紫電、紫電改で編成された筑波海軍航空隊戦闘第四〇二飛行隊で終戦を迎えたが、戦闘第四〇二飛行隊の名簿を見ると、飛行時間196時間10分(土方さんは終戦までに435時間)、技倆評価D(なおも訓練を要する者)とされていて、飛ぶ機会もおそらく成績順に多かったのだろうと推測される。 小野さんは、谷田部海軍航空隊で終戦を迎えた。飛行時間は終戦時、航空記録が焼却されたため不明だが、本人の記憶では約200時間とのことだった。2人とも海軍では正当に評価されなかった感はあるが(ほかの人が優秀すぎたのかもしれない)、いずれも戦後、パイロットとして大空にカムバックしている。 内田さんは戦後、民間航空のパイロットとなり、戦後日本初の旅客機YS-11のテスト飛行にも任じている。内田さんが私に語ったところでは、飛行中片側のエンジンを止め、片肺飛行のテスト(エンジンの片方が停止しても安全に飛べるか、の実験)などもしたという。小野さんは海上自衛隊の対潜哨戒機のパイロットとなり、自衛隊退官後は全日空に転職してシミュレーター教官を務め、多くのパイロットを育てた。
土方さんは、戦後成蹊学園中高校の数学教師を経て教頭となった。故安倍晋三総理の恩師にあたる。退職後は長年にわたり外務省帰国子女相談室長を務めた。 この3人の戦後の経歴だけを見ても、戦死した人たちがもし生きながらえていたら、どれほどの能力を発揮し、どれほどのことをやり遂げたかと思わずにはいられない。生きていれば残せたであろう子孫のことも――。 「あの戦争」で失われた命は惜しみても余りある。だからこそ、二度と繰り返してはならないのだ。
神立 尚紀(カメラマン・ノンフィクション作家) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.09.21 14:18:40
コメント(0) | コメントを書く
[反天皇制] カテゴリの最新記事
|
|