カテゴリ:反天皇制
能天気な平和主義者の(おかげ)で、日本人の(平和ボケ)は、限りなく深化していった・・・・ 2022-9-21 はんぺん アメリカの占領政策の大きな柱は、「日本軍国主義の牙を抜く!!」ことだった。 その具体化が、日本国憲法の(戦争放棄)であり、(非武装)であった。
それを、知ってか知らずか? 「戦争は2度とごめんだ!」という素朴な国民感情を背景に、リベラルたちは、「憲法があれば、戦争せずに、やっていける・・・」と捻じ曲げたのだった・・・・
(戦後の日本が、戦争せずに済んだのは、憲法のおかげだ)と、今でも社民党や新社会党は選挙のたびに主張してきたのだ。 なんという事だろうか!
昔の僕も含めて、リベラルたちは、とてつもない大きな(罪作り)、巨大な(犯罪)に手を染めてしまったのだ・・・・・ 一度しか無い、自分の人生を、このような(過ち)の中に、身を置いたことに、僕は激しく後悔している。 そして、残された余生を、いかに生きるべきか? いつも、そのことを考えている・・・・
皆さんは、どう思われるか? はんぺん ――――――――――――――――――――――――― 天声人語(1965・8・15) 朝日新聞 戦争中、戦地の特派員から、よく、多数の戦死者、戦傷者の住所氏名が打電されてきた。新聞社への入電は公報よりも早い。地方のばあい、支局員は自転車に乗って、戦死者の家庭を回り、写真を借りる。まったくつらい仕事だった
▼昭和十三年だったか、長野支局員だった筆者は、戦死者の家をたずねて山の中の村に行った。傾いた農家だ。障子の破れから中をのぞくと、老母と娘がだまってひるめしを食べていた。食卓もなく、ボロボロのタタミの上に茶わんをおき、背中をかがめていた
▼娘は顔いろが悪く、老母はしらがだらけだった。働き手を戦争にとられた家らしい。この一家にどうして戦死と知らせられよう。考えこんでいると、人の気配を察して、老母が出てきた。しかたなくこう言った。「息子さんが負傷されたらしいんです。たいしたことはないと思いますが……」。一枚きりの写真を借りた
▼自転車に乗ろうとすると、老母はとつぜんに荷台をつかんで、必死のこえでさけんだ。「記者サ、おまえサなにかかくしているでねえか。セガレが死んだなら死んだと言うてくれヤ。天皇サマにあげたいのちだ。泣くこたァねえ、泣くもンじゃねえ……おら、泣きゃしねぇ」
▼こう言いながら老母は泣き、まっさおな顔で、自転車をつかんではなさない。娘は地べたにすわりこんで、声をあげて泣いた。「いや、ケガです、ケガです」と言いながら、記者もなみだをこらえきれず、立ちすくんだ。じぶんにもいつ赤紙がくるか、重い足で、つぎの戦死者の家を捜して峠をこえたことを思い出す
▼あの老母と娘の号泣が耳の底に残る。そのころの支局員は悲しみの使者みたいなものだった。ひとり息子の戦死を知って気が狂い、勝ってくるぞと……と楽隊のまねをしてわめきながら、駅を歩きまわる母がいた。憲兵がつれて行っても、また駅にもどってきた
▼日本に戦争がなかった、このことだけで、この二十年は他のなにものにもかえられぬよい時代だ。この「戦後」が「戦前」にかわることは絶対にあってはならない。 ――――――――――――――――――――――――――――― 昭和天皇の戦争責任論(ウイキペディア) 東京裁判では昭和天皇が大日本帝国憲法の規定によって、大日本帝国陸軍および大日本帝国海軍の統帥権を有する国家元首、かつ大日本帝国陸海軍の最高指揮官(大元帥。軍の階級としては陸海軍大将)であったため、「侵略戦争」を指導した国際法違反を昭和天皇が犯したとする法的責任があったと指摘を受けた場合に、訴追対象になる可能性があった
一方、立憲君主制の下に日本国民に対する政治的、道徳的責任、すなわち国民国家に対する多大の人的・物的損害と領土失地などの敗戦責任を何らかの形で取るべきであったのではないかという議論があった。後者については秦によれば、昭和天皇は自らが退位することで責任を取る意思があったが、こちらも実現することはなかった。
その後、同盟国であった第一次世界大戦敗戦後のドイツにおける帝政崩壊とは相違して、占領政策を円滑に行うためのGHQ(SCAP、連合国軍最高司令官総司令部)の意図もあり、敗戦後も皇室は維持されることになった。
昭和天皇は1947年(昭和22年)5月3日の大日本帝国憲法改正による日本国憲法施行後も1989年(昭和64年)1月7日に崩御するまで第124代天皇として在位し続けた。
戦争責任を肯定する立場の主張 戦争当時の日本では国家主権は天皇に帰属し、日本国内でも外国でも天皇は日本の元首であり最高権力者であると認識されていて、戦争を始めとするすべての政治的な決定は天皇の名のもとで下され、遂行されたという歴史的事実から、天皇に戦争責任があったとする主張がある。
極東国際軍事法廷(東京裁判)では天皇は起訴されなかったが、裁判長のウィリアム・ウェブは、個人的な意見として天皇の戦争責任を言及した。
一、天皇の権威は、天皇が戦争を終結された時、疑問の余地が無いほど証明されている。(略) 一、天皇が裁判を免除された事は、国際軍事法廷が刑を宣告するに当たって、当然配慮すべきことだったと私は考える。 一、天皇は常に周囲の進言に基づいて行動しなければならなかったという意見は、証拠に反するか、またかりにそうであっても天皇の責任は軽減されるものではない。 一、私は天皇が処刑されるべきであったというのではない。これは私の管轄外であり、天皇が裁判を免れた事は、疑いも無く全ての連合国の最善の利益に基づいて決定されたのである[5]。
ウェブはこう述べて、天皇には戦争責任があるが、政治的配慮によって起訴されていない事を明らかにした[6]。
また、天皇自身も戦争責任を意識している節は各種証言や手記によって確認されている。ポツダム宣言受諾の際の1条件(国体護持)をめぐる回答や、(中曽根らの進言に沿って 戦後に退位を望む意向を示したことなど。
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最終更新日
2022.09.21 00:00:23
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