カテゴリ:反原発
原発で、自分たちの首を締める愚行に気づけないままに、この社会は消えるのか? 地震大国の日本に原発は狂気の沙汰だが(懲りない面々)は、くたばらない! お前ら!騙されるな! 2023-5-10 はんぺん 思わず注視、やっぱり(珠洲原発)計画を潰せて良かったと しみじみ思う。 地震大国の日本に原発は、狂気の沙汰だ・・・・・・・
珠洲市周辺を震源とした地震のニュースが飛び込んできた 昔・・・・この活断層が網の目のように集中している危険な地域に、原発を作ろうという無謀な試みが、あったことを、どれだけの国民は覚えているだろうか?
人間というのは(忘れやすい生き物)だと思う。
戦争の記憶の風化の話も、よく聞く。「原爆忘れまじ」が、はたして、何時の時代まで有効性を持ちうるのか? 僕は、悲観的な思いが強い・・・・ あの阪神大震災や東日本大震災の記憶も、何時頃まで、語り伝え続けられるのか?
今回の震度6強の大地震に・・・思わず、うなった・・・・やっぱり(珠洲原発開発計画)を 地元の住民を中心とした全国の反原発闘争の力で、止めたことの意味は、大変に大きかったな!!!と。 地震大国の日本に原発は、狂気の沙汰なのだ!!!
国民のお金(税金や電気料金)で、巨額の投資をして、いったん大事故が起きても、誰も責任を取らないのが、原発だ・・・・ にもかかわらず、原子力村では、おいしい利益を山分けする政官財界が、一致して、原子力開発を進めてきた。
いま、(甘い汁)で指弾された関西電力の経営陣たちも、のらりくらりと責任回避の真っ最中・・・・ ・・・騙され続ける国民に対しては・・・・あんたら、アホか!! いつまで馬鹿にされてるんや!! いい加減に目を覚まさんかいな・・・・と言いたい!!
珠洲原子力発電所(ウイキペディア)
珠洲原子力発電所(すずげんしりょくはつでんしょ)は、石川県珠洲市に建設する計画であった原子力発電所である。 北陸電力・中部電力・関西電力の電力会社3社(以下電力3社と表記)による共同運営が予定されていたが、1975年の計画浮上から28年目の2003年12月5日に計画が凍結された。
概要・・・・ 電力3社が共同で運営を予定していた原子力発電所で、中部電力側が珠洲市三崎町寺家地点で、北陸・関西両電力が珠洲市高屋地点(関西側が主導)で発電施設を共同開発するものであった。
2か所で合わせて135万kWクラスの原子炉2基を設けて、2014年(平成26年)に運用を開始する計画を立てていた。
計画から28年間、地元からの反対運動や産業構造の変化や景気低迷に伴い、電力会社側の判断により計画が凍結されることとなった。
建設計画の浮上 珠洲市での原子力発電所建設計画が浮上したのは、1975年8月に発覚した、能登半島先端部における北陸電力の原子力発電所共同開発計画が端緒となっている[5]。同年10月30日、珠洲市議会は全員協議会において「原子力発電所、原子力船基地等の調査に関する要望書」を国に提出することを議決し、やがて石川県知事の中西陽一に手渡した。
当時中西は能登半島への原子力発電誘致を加賀・能登の格差是正や産業振興、過疎化抑制の手段とし、原発推進の姿勢を示していた。その中で、珠洲より先に羽咋郡志賀町に志賀原子力発電所の建設が決定した。
この動きから、電力3社は珠洲市内での原子力発電所建設構想を打ち出した。要望書提出後の国による立地予備調査を経て、珠洲市側は一度は静観するものの、1983年12月16日に珠洲市長の谷又三郎が市議会で原発立地推進を表明した。
これより先、1982年5月から1983年5月まで、一時原発立地が棚上げとなったため「石炭火力立地可能性調査」を行ったが、1983年6月、石炭火力の立地は経済性から困難であることを市に報告している[6]。
翌年には電力3社による珠洲市への立地可能性調査の申し入れと「珠洲電源開発協議会」の設立が行われ、原発立地への動きが進められた。
建設反対運動 電力3社と珠洲市側による建設推進行動と平行して、市民側でも原発建設反対への流れが進んだ。1978年には市民および漁協など地域単位での建設反対運動により「珠洲原発反対連絡協議会」を設立し、総評系労働組合や日本社会党珠洲総支部などの支援を受けた。
1989年5月12日には関西電力が高屋地区での立地可能性調査に着手するが、建設反対派による阻止行動や珠洲市役所での座り込みにより、同年6月16日に調査を一時見合わせることを決定した。 建設反対派は調査見合わせ決定の翌日に「珠洲原発反対ネットワーク」を設立し、その後珠洲市議会や石川県議会へ建設反対派議員を送り込むことになった。
珠洲市長選挙をめぐる混乱 1993年4月18日、当時原発立地を推進していた現職の林幹人(はやし みきんど)と建設反対派の樫田準一郎(かしだ じゅんいちろう)で珠洲市長選挙が行われたが、投票数に対し投票総数が16票多かったことから不正選挙の疑惑が浮上した。
建設反対派は選挙無効を石川県選挙管理委員会に申し立てたが、委員会はこれを却下した。建設反対派は同年12月に名古屋高等裁判所金沢支部に選挙無効を提訴し、1995年12月11日に選挙無効の判決が出された。その後、石川県選挙管理委員会は最高裁判所に上告するが、1996年5月31日に上告を棄却する決定が行われ、選挙の無効が確定した。
同年7月14日にやり直し選挙が行われたが、不正を行ったとされる林は立候補できず、珠洲市職員だった貝蔵治(かいぞう おさむ)を後継候補に指名した。この時も原発立地推進を唱える貝蔵が当選した。
その後、推進派は継続したが、2006年、反対派である現市長(2016年現在)の泉谷満寿裕が立候補し初当選。住民の意思のもと原発設置の反対が確立された。
建設計画の凍結 建設計画浮上から28年後の2003年12月5日、電力3社の社長3人(北陸:新木富士雄、中部:川口文夫、関西:藤洋作)が珠洲市役所を訪れ、産業構造の変化と電力需要の低迷を理由に珠洲原子力発電所の建設計画凍結を珠洲市長の貝蔵治に申し入れた[7]。
1993年に要対策重要電源の指定を受けながら、電力会社の判断で建設中止を決定した初めてのケースであった。
建設計画が凍結されたきっかけは、住民の建設反対運動に加え、計画地点での未買収用地が1割から2割残ったことも要因とされている。その後、珠洲電源開発協議会も解散し、原子力発電所の立地騒動は収束した。
なお、同じ月には新潟県西蒲原郡巻町(2011年現在の新潟市西蒲区)に建設計画があった東北電力巻原子力発電所も計画を撤回している。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023.05.10 00:00:23
コメント(0) | コメントを書く
[反原発] カテゴリの最新記事
|
|