カテゴリ:死刑制度
(死刑反対派)のリベラルたちは、なぜ、(加害者の人権)を問題にする前に、(被害者の人権)や遺族の悲しみに寄り添えないのか? 僕は、不思議でならない!!! 2024-5-2 はんぺん よく(死刑反対)のリベラル派の人たちは、加害者側の(人権)を問題にする場合が多いように思うが・・・以前から、ちょっと違和感を覚えていた・・・
中山千夏氏は、「ヒットラーでも死刑にしないの」を、1996年に上梓した。 「正義の殺人を認める限り戦争も続く」「被害者救済には報復より報道の見直しと補償を」と説く。凶悪犯の人権を認めない「素朴な感情」の底の未熟な人権感覚に気づかされる。 ・・・・そうだろうか? (未熟な人権感覚)って、何だろう? (凶悪犯の人権)を誰も否定はしない・・・僕が言いたいのは、加害者(大抵は殺人者=犯人)に寄り添う前に、まず第1に、被害者やその遺族の「素朴な感情」に寄り添うべきではないか? ということ。 物事には、順序があるのだ。
被害者やその遺族に寄り添わずに、なぜ?一足飛びに、加害者(殺人犯)に寄り添えるのだろうか?? 僕は、不思議でならないのだ!!!
「生きること」「生命」を大事にする人だからこその思いが伝わってきて、説得力のある死刑廃止論となっている。 ・・・・「生きること」「生命」を大事にすることが、現実の世界では、第1義的であるが故に、その大切なものを侵害されたら、社会として、どう対応すれば良いのだろうか? を考えるべきだろう・・・ 「生きること」「生命」を大事にすることが・・・なぜ?「説得力のある死刑廃止論となっている。」のか? 僕は、さっぱりわからない!!!
「極刑は国家が法律にのっとって行う一種の殺人であり、犯罪抑止の効力もない」 ・・・そうだろうか? 「一種の殺人」であることは、間違いないが、このことと、加害者による犯罪(殺人)とを、切り離して議論できるのか? 僕の違和感は、そのあたりから来ている。
殺人一般(?)の議論は、(まやかし)ではないか? 個人による犯罪(殺人)と 市民社会の公的機関である国家機関が、市民の代理権を付託されて、行なわれる(死刑)とは、明らかに、次元の異なる問題でもあるのに、死刑廃止論者は、しばしば、それらを(意図的に?)混同させて、殺人一般(?)の議論にすり替えしてしまう・・・・これって、おかしいだろう・・・・
それと、犯罪抑止の効果は無い・・・という意見も、時々目にするが・・・そうだろうか? 事実認識の問題だろうが、僕は、犯罪抑止効果は、絶大であると思っている。 (死刑)という刑罰の(重み)は、市民社会が、市民の良識に支えられる中で、 社会の安定のために充分に機能している・・・と考えるからだ。
皆さんは、どう思われるか? はんぺん
――――――――――――――――――――――――― 「Quora」から・・・・ 日本人で死刑賛成派が多いのは、温厚な人種に見えて、実は日本人はかなり野蛮な人種だということですか? 回答 希橋沙耶・・・・・・ 私の家族は、トラックの居眠り運転が原因で亡くなりました。 二人死亡、多数の負傷者を出して、業務上過失致死傷罪ですよ。
数年で刑務所から出てきて、とっくにその辺で暮らしていることでしょう。 一度も謝りに来たことなどありません。
それよりも、無惨に殺された被害者の家族は、私の家族よりももっと辛い思いをされてる。
愛する家族をいきなり失い、テレビ報道やネットで有りもしない誹謗中傷を受ける人も居る。 下手すれば、心が病んで普通の生活がままならなくなる人だっている。
それでも加害者がいつか刑務所から出てくる。 確かに、人が人を裁くことの難しさはある。
でも、あなたが心から愛する人が被害者になった時、あなたは加害者が許せますか? 数年でシャバに出てきてのうのうと暮らしてる加害者が許せますか?
罪は償ったろ!と、あなたの目の前で言い放ったら、そうでしたね、と笑って許せますか? 死刑反対派の人は、自分の愛する人が無惨に殺されても反対と言えるんですかね? 反対と言えるのならば、薄っぺらい愛情しか持ってなかったんだろうなと、私は思いますがね。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.05.10 18:02:38
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